天正5年(1577年)、大和信貴山(しぎさん)城主の松永久秀(68歳)が、織田信長(44歳)に対して反旗を翻した。この年の8月、久秀は織田勢の一軍として石山本願寺攻撃に参加し、天王寺砦を守備していた。しかし8月17日、久秀は突然軍を引き払って信貴山城へ退去してしまう。越後の上杉謙信(48歳)が、信長打倒の兵を挙げるのに呼応するため、と考えられている。
久秀は、息子の久通(ひさみち)と共に信貴山城に籠城。これに対して信長は、嫡男の信忠(のぶただ)を総大将に、佐久間信盛、羽柴秀吉(41歳)、明智光秀(50歳)らを派遣した。信貴山城は山を巧みに利用した天然の要害であり、攻防戦は50日間にも及んだ。
10月10日、大軍の織田勢の一斉攻撃を受け、久秀はかねてから信長が所望していた名茶器「平蜘蛛(ひらぐも)」と共に、火薬を爆破させて自害して果てた。ちなみに、ちょうど10年前の同月同日は、久秀が東大寺で三好三人衆を破り、大仏殿を炎上させた日であった。
(2003年9月23日撮影) |
<参考>
・日本全史(講談社)
・信貴山城址説明書き
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