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龍野古城・龍野城

 龍野城は、戦国時代に使われていた山城と、関が原の戦い以降に築かれた平山城の二つがあります。このページでは、現地の掲示板表記に従って、古い山城の龍野城を「龍野古城」、麓の平山城を「龍野城」と呼んで区別することにします。

龍野古城

時代区分戦国時代分類区分城・砦旧国名播磨
現在地

兵庫県龍野市龍野町北龍野

別名

朝霧城

城分類山城
関連人物

・赤松村秀(築城)

略歴

・明応8年(1499年) 築城
・天正5年(1577年) 城主の赤松広英が羽柴秀吉の軍に降伏開城
・慶長3年?(1598年)破却・廃城

揖保川にかかる橋から見た鶏籠山

<龍野古城の沿革>
 龍野古城は、戦国時代前期に、現在の龍野城の背後にそびえる鶏籠山(けいろうさん)に築かれた赤松氏の城でありました。鶏籠山は標高210mほどですが、山頂からはこの辺りの盆地が一望できます。また、揖保川(いぼがわ)の流れは東から来る敵に対して天然の外堀としての役割を果たしたことでしょう。
 天正5年(1577年)織田信長の家臣である羽柴秀吉が二万の大軍を率いて龍野に攻め込んできました。これに対して、当時の城主・赤松広英(あかまつ ひろひで)は籠城・徹底抗戦を考えますが、赤松家の滅亡を憂う家臣の諌めを受け入れ、開城降伏するのでありました。
 その後、龍野城は秀吉軍の拠点の一つとして機能し、蜂須賀正勝(はちすか まさかつ)福島正則(ふくしま まさのり)らが入れ替わり立ち代り城主を務めました。やがて、秀吉の手によって天下統一が成されると、龍野城はその役割を終え、天守閣もろとも破却されてしまったそうです。

<探検メモ>
 龍野城の本丸御殿の裏の方に、鶏籠山の登山口があります。この辺りは、紅葉がたいへん綺麗な場所で、秋には行楽客も多いそうです。登山口から山頂の本丸までは、だいたい30分ぐらいでしょうか。二の丸跡・本丸跡や、古びた石垣もちらほらと見ることができます。残念ながら、山頂からの眺めは木々に覆われているため、あまりよくありません(^_^;)


龍野城

時代区分江戸時代分類区分城・砦旧国名播磨
現在地

兵庫県龍野市龍野町上霞城

別名

霞城(?)

城分類平山城
関連人物

・本多政朝(築城)
・脇坂安政(御殿式改築)

略歴

・慶長5年(1600年)
姫路城の池田輝政の領地となる
・元和3年(1617年)
本多政朝が5万石で入城 近世龍野城の基礎が築かれる
・万治元年(1658年)
京極高和が讃岐国丸亀に転封 城は破却され、龍野は天領となる
・寛文12年(1672年)
脇坂安政が5万3千石で入城
・明治4年(1873年)
廃藩置県

龍野城の大手門(たぶん復元)

<龍野城の歴史>
 龍野城の歴史は、城主の交替が多く、やや複雑になっています。まず、関が原の戦い以後、播磨の国は姫路城の池田輝政(いけだ てるまさ)の支配下に置かれ、龍野は輝政の家臣の知行地となっていました。その後、近世龍野城を築いたのが、元和5年(1617年)に入府した本多政朝(ほんだ まさとも)です。しかし、政朝は兄の死により、姫路城に移ったため、その統治期間はわずか九年間でした。その後、龍野城は小笠原長次、岡部宣勝、京極高和と城主が代わっていきます。京極高和が讃岐の丸亀に転封された後の14年間は、幕府直轄地である天領となり、城主もなく、城も荒れ放題に荒れてしまったそうです。
 龍野城が落ち着きを見せるのは、寛文12年に龍野に入った脇坂安政(わきさか やすまさ)の頃でした。安政は、荒れた龍野城の改築に乗り出しました。どのような城を築くかは、様々な議論があったそうですが、既に時代は戦のない太平の世であったこと、脇坂家は外様大名であること(=幕府から目をつけられやすい)などを考慮し、御殿式の築城となったそうです。簡単に言うと、「城」というよりは「武装化された邸宅」のようなものであったそうです。
 明治維新により、龍野城はあらかた破却されましたが、昭和54年に本丸御殿が復元されました。本丸御殿は一般の見学者でも中に入って見ることができます。

龍野城の隅櫓(たぶん復元)

<交通情報>
・電車:JR姫新線「本龍野」駅より徒歩20分

<付記>
・南に少し行ったところに、武家屋敷があります。こちらも合わせて見て行くといいと思います。
・西には、松平定信が遊びに来たという、聚遠亭(しゅうえんてい)という庭園もあります。

探検日:2005年1月4日
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