築城年 | 1589年 | 分類 | 平山城? | |
築城者 | 小西行長 | |||
歴代城主 | 小西家 → 加藤家 | |||
別名 | 鶴の城 | |||
史跡指定 | 市指定史跡 | |||
現在地 | ||||
熊本県宇土市古城町 |
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略歴 | ||||
・天正17年(1589年) 肥後南半国(宇土・益城・八代)の領主となった小西行長が築城 |
<宇土城の沿革>
宇土(うと)城を築いたのは小西行長ですが、行長が築城する以前から中世の城が存在していたと伝えられています。天正16年(1588年)に宇土・益城・八代三郡の領主となった行長は、宇土城の築城を開始。以前から存在していた城と共に見ると、鶴が翼を広げているように見えたため、「鶴の城」という別名がついたそうです。城の敷地は東西に550m、南北に500m、面積では20万uに及ぶ大きな城であったそうです。
慶長5年(1600年)の関が原の戦いの折、西軍についた行長は主戦場である関が原に赴き、宇土城は行長の弟・隼人が城を守っていました。一方、熊本城の加藤清正は東軍に味方し、宇土城を攻撃。隼人はよく守ったそうですが、行長の死と西軍の敗報に接して開城降伏。宇土城は清正の城となりました。
その後、清正はこの城を隠居城とするために普請を行ったそうです。上の写真の石垣はその時に積まれたものであり、熊本城の積み方と同じ技法で積まれているそうです。しかし、慶長16年(1611年)に清正が死去すると、翌年には幕府の命により破却されました。さらにその後の島原の乱の後に破却が徹底されたそうです。そのため、宇土城の遺構はほとんど残っておらず、石垣の一部がわずかに残っているのみとなっています。
<おすすめ見所>
・小西行長像
本丸広場は、平らな広い公園になっています。その一角に、小西行長の銅像が立っています。行長はキリシタン大名であったためか、銅像の行長は十字架を首からさげていました。