平忠常の乱

 平将門の乱からおよそ100年が過ぎた頃。東国において、再び地方豪族の争乱が勃発しました。乱を起こしたのは平忠常(たいらのただつね:生年不詳)。将門の叔父・平良兼の孫であり、乱の前には上総介や武蔵国押領使に就いていたこともありました。乱の前年から、忠常は国司と対立しており、この年ついに上総の国府を占領。さらには安房守の平惟忠(たいらのこれただ)を焼き殺すなどの反乱行為に及んだため、朝廷から追討令が出される事態となります。
 万寿5年(1028年)6月21日。朝廷の会議の結果、当初は河内に強い勢力を持っていた甲斐守の源頼信(みなもとのよりのぶ:61歳)の名があがりましたが、最終的には検非違使の平直方(たいらのなおかた)中原成道(なかはらのなりみち)の2名が追討使に任命されました。平直方は、平貞盛の子孫にあたり、東国においては忠常とライバル関係にあったため、この辺の事情が直方が追討使に任命された理由の一つになっているようです。
 しかし、この追討使はまったく奮いませんでした。出発から日取りの良し悪しを論議しているうちに時は過ぎ、二人が都を出発したのは8月5日。この間、上総の国からは追討使派遣の要請がしきりに届いていたそうです。7月25日には年号が「長元」に改元され、そして出発直前の8月1日には、検非違使が忠常の密使2名を京都で捕縛するという事件が起こりました。密使の手紙の宛名は内大臣・藤原教通となっており、その内容は今回の事件に対する申し開きの陳情であったそうです。ともあれ、追討軍は各地で兵を集めながら進み、上総に到るわけですが、忠常軍との戦いは芳しくありませんでした(戦闘の詳細については不明)。追討使の一人の中原成道などは士気が弱く、朝廷への戦況報告も滞っていたため、長元2年(1029年)12月8日をもって追討使を解任させられています。長元3年(1030年)3月27日には、安房守の藤原光業が忠常に追われ、国の印鎰を捨てて京都に逃げ戻ってしまいます。この状況はまるで100年前の平将門の乱の時のようです。朝廷は長元3年(1030年)9月2日平直方を解任。代わって、甲斐守の源頼信が追討使に任じられました。ちなみに、忠常はかつて頼信に仕えていたことがある、という間柄であったそうです。
 頼信が追討使となった後は一戦も交えることなく、長元4年(1031年)4月28日、忠常は頼信に降伏し、一連の争乱はやっと終息しました。忠常が一戦も交えずに降伏した理由としては、2年半に及ぶ戦乱で上総・下総・安房の荒廃が著しく、人心が離反していたことや、頼信とはかつて主従関係にあったことなどが考えられていますが、もう一つの考えられる理由としては、自身の死期が近いことを悟っていたためかもしれません。事実、忠常は降伏後、京に護送される途上の6月16日、美濃で病死して果てたのです。忠常の首は京まで運ばれ、さらし首となりましたが、後に首は子息達に返されました。
 この乱の後、功が認められた頼信は美濃守に任じられました。また、今回の争乱で源氏と東国豪族の関係が強化され、源氏が東国に強い勢力を築く礎となった、とも評価されています。一方、敗れた忠常の子息達は赦される、という寛大な処置が取られ、乱の処理は片付いたのでした。ちなみに、忠常の子孫は房総半島に勢力を持ち続け、源平合戦の頃の上総広常千葉常胤か忠常の子孫にあたります。途中で追討使を解任された平直方はパっとしませんでしたが、彼の子孫に北条時政が登場します。頼信の子孫が、源頼朝ですから、この辺りに歴史の因縁を感じさせるところです。
 

<参考書>
・新日本史B(桐原書店)
・日本全史(講談社)
・新詳日本史図説(浜島書店)

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