宗家と李氏朝鮮の外交交渉

 天正15年(1587年)は、豊臣秀吉の天下統一事業にとって、大きな転機を迎えた年になりました。九州平定を完了したことで、残すところは関東の北条氏と小大名が乱立する東北となったわけです。天下の半分以上を手中に収めた秀吉は、「統一後」を視野に入れた外交政策をはじめます。その一つは、李氏が支配する朝鮮でした。
 これまで、李氏朝鮮と交流を持っていたのは対馬を治める宗家でした。対馬は山がちな地形で田畑が少なく、宗家は朝鮮に朝貢することで貿易を行い、その利益で家を維持している状況であった、と伝えらています。なので、過去には元寇や応永の外寇などで対馬が朝鮮に攻められることもありましたが、このような対馬の内情から、宗家は朝鮮との交流を維持してきた背景があったわけです。しかし、秀吉の天下統一が進むにつれ、宗家にも大きな苦難が訪れることになります。この年の5月初旬、薩摩の川内に陣取っていた秀吉が宗家の当主・宗義調(そう よししげ)の使者に対し、李氏朝鮮に対して入貢させることを厳命。九州平定が完了し、帰路の途上についた秀吉は、同年6月7日に筥崎で宗義調とその子・宗義智(そう よしとし)を引見し「翌年中に朝鮮国王を参内させよ。」と再度厳命します。秀吉の命令が実現不可能であることは十分予測できたことですが、だからといって朝鮮を怒らせて貿易を絶たれてしまうと、対馬は生き抜く術がなくなります。宗家は御家存亡の危機にさらされたわけです。

 宗義調はその後間もなく他界し、宗家の家督は宗義智(22歳)が継承します。そして、その義父(義智の正室は行長の娘)である小西行長(こにし ゆきなが)と共に朝鮮問題に取り組むことになりました。二人は一計を案じます。天正17年(1589年)6月、博多聖福寺の僧・景轍玄蘇(けいてつげんそ)を正使とし、宗義智を副使とした総勢25人の「日本国王使」が朝鮮に渡海しました。この中には、宗家の重臣である柳川調信(やながわ しげのぶ)や博多商人の島井宗室(しまい そうしつ)も含まれていました。この使節の目的は、秀吉が日本を統一したことを報告し、答礼の通信使の派遣を要請することにありました。秀吉には、通信使を入朝に代わるものと説明して納得させる一方で、通信使には日本国内の情勢を視察させることで、なんとか戦争を回避させよう、とする苦肉の策でありました。
 一行は漢城の東平館に滞在し、通信使の派遣を要求していましたが、交渉は難航。8月28日、仁政殿で国王の宣祖と謁見しましたが、朝鮮側は「水路迷昧」(海路に不慣れだから)という理由で通信使の派遣を拒否。義智は「海路は自分が十分知っているから、ついてくるだけでよい」とくいさがります。その結果、全羅道沖で海賊事件を起こした朝鮮人・沙火同(さかどう)を、宗家が逮捕・送還するならば、その引換として通信使を派遣するという交換条件が成立しました。この条件は翌年4月に満たされ、通信使は釜山を出発します。

 こうして派遣された朝鮮通信使は、黄允吉(こういんきつ)を正使、金誠一(きんせいいつ)を副使とした200人の大使節団でした。ところが、対馬である事件が起きたことが、柳成龍(りゅうせいりゅう)が記した『懲録』に記されています。
 対馬の山寺で宗義智が通信使を接待した際、通信使が先に座している状態で、義智は籠に乗ったまま門をくぐり、階段の下まで来た時点で籠を降りたことに対し、金誠一が激怒。儒教文化の強い朝鮮では「礼」が重んじられるため、作法の誤りは相手に対する侮辱とされるようです。金誠一は義智の失礼をおおいに咎め、怒って席を立ったところ、義智は失礼を籠かきの責任とし、その首をはねて通信使に差し出して謝罪した、という話があります。何が何でも、通信使を実現させたかった義智の苦悩が窺える話です。
 天正18年(1590年)7月22日、通信使は京都に到着。大徳寺を宿舎としましたが、この時、秀吉は北条氏を降伏させ、小田原城を接収したばかりで不在。9月1日に秀吉は京都に帰還しますが、屋敷の修理やらなんやらで通信使と会見しようとせず、11月7日にようやく聚楽第で会見のはこびとなります。通信使は「秀吉の日本統一を祝賀する」という内容の国書を提出し、秀吉は正使・副使に銀400両を、その他の者には身分に応じて品物を与えました。しかし、秀吉は幼児であった鶴松を連れて会見の場に姿を現し、鶴松が小便をして服をぬらすと、女性を呼んで後片付けさせる、という秀吉らしい演出をしていますが、これに通信使は激怒。通信使は帰路、堺で秀吉の返書を受け取りますが、その内容に愕然とします。書状には
「明国全体を我が国の習俗に変えてしまおうと思う。自分が明征服の軍を出すときには朝鮮もはせ参じるように」
という、朝鮮を日本の傘下にあると見ている、異常なほどの高飛車な内容でした。これに対し通信使が再び激怒。両国間の関係は悪化していきます。通信使は朝鮮に帰りますが、僧の景轍玄蘇柳川調信が同行。なんとか関係改善に取り組みますが、成果は上がらなかったそうです。朝鮮では、御前会議で日本への対応が議論されましたが、たいへん紛糾します。朝鮮政府では、官僚が「東人党」と「西人党」に分かれて派閥抗争をしており、正使の黄允吉は西人党、副使の金誠一は東人党でした。「倭(日本)は、今にも攻めてくる」と主張する黄允吉に対し、金誠一は「そのような兆候はない」と主張。激論の結果、金誠一の言が採用されました。これが、開戦初期の朝鮮軍大敗北の一因になっているようです。

 天正19年(1591年)6月宗義智は秀吉の使者として、再び釜山に渡ります。秀吉に従わなければならない一方で、朝鮮との関係も維持したい宗義智は苦心します。その結果、内容を「明と通交したいので、道を借りたい」というものに勝手に変え、なんとか体面を保つ作戦に出ます。義智は
「日本は明と通交を持ちたい。その仲介役を朝鮮にお願いしたい。これが受け入れられないと、両国の和平は崩れて大事に至る。」
と、秀吉の要求を大幅に譲歩した内容で朝鮮に了解を求めますが、朝鮮はこれも拒否。
 こうして、宗家を仲立ちとした日本と朝鮮の交渉は決裂。歴史上初めて、日本が朝鮮に仕掛ける形で戦争が始まることとなりました。


文禄の役へ
 


<参考>
・新日本史B(桐原書店)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・日本全史(講談社)
・その時歴史が動いた「第310回 対馬藩・決死の国書すり替え」
・秀吉の野望と誤算(文英堂)

戦国時代年表へ戻る
侍庵トップページへ戻る