文禄の役(1592年)

 天正20年(1592年)1月5日豊臣秀吉(56歳)が朝鮮・明に送る遠征軍の編成を発表しました。ここに、日本史上、最初で最後の武士団による海外遠征が行われることになったわけです。その編成の概略を見てみると・・・
第一軍  総兵力:18700
・小西行長(肥後宇土)  7000
・宗義智(対馬府中)   5000
・松浦鎮信(肥前平戸)  3000
・有馬晴信(肥前日野江) 3000
・大村喜前(肥前大村)  1000
・五島純玄(肥前五島)   700

第二軍  総兵力:22800
・加藤清正(肥後熊本)  10000
・鍋島直茂(肥前佐賀)  12000
・相良頼房(肥後人吉)    800

第三軍  総兵力:11000
・黒田長政(豊前中津)  5000
・大友義統(豊後府内)  6000

第四軍  総兵力:14000
・島津義弘(大隅粟野) 10000
・伊藤祐兵(日向飫肥)   730
・毛利吉成(豊前小倉)
・高橋元種(日向高鍋)
・秋月種長(日向財部)
・島津忠豊(日向高城) あわせて3270

第五軍  総兵力:25000
・福島正則(伊予今治)  4800
・戸田勝隆(伊予板島)  3900
・長宗我部元親(土佐浦戸)3000
・蜂須賀家政(阿波徳島) 7000
・生駒親正(讃岐高松)  5500
・来島通総(伊予風早)   700

第六軍  総兵力:15700
・小早川隆景(筑前名島) 10000
・毛利秀包(筑後久留米)  1500
・立花宗茂(筑後柳川)   2500
・高橋直次(筑後三池)    800
・筑紫広門(筑後山下)    900

第七軍  総兵力:30000
・毛利輝元(安芸広島) 30000

第八軍  総兵力:10000
・宇喜多秀家(備前岡山)10000

第九軍  総兵力:11500
・羽柴秀勝(肥後宇土) 8000
・細川忠興(丹後宮津) 3500

諸隊  総兵力:12000
・中川秀政(播磨三木) 3000
・宮部長煕(因幡鳥取) 2000
・南城元清(伯耆岩倉) 1500
・稲葉貞通(美濃郡上) 1400
・亀井茲矩(因幡鹿野) 1000
・木下重賢(因幡若桜)  850
・斎村広英(但馬竹田)  800
・明石則実(播磨明石)  800
・別所吉治(丹波園部)  500
・垣屋恒総(因幡浦住木山)400

水軍  総兵力:9200
・九鬼嘉隆(志摩鳥羽)
・藤堂高虎(紀伊粉河)
・脇坂安治(淡路洲本)
・加藤嘉明(伊予松崎)

奉行  総兵力:7200
・石田三成(近江佐和山) 2000
・大谷吉継(越前府中)  1200
・増田長盛(近江水口)  1000
・加藤光泰(甲斐甲府)  1000
・前野長康(但馬出石)  2000

以上、秀吉子飼いの武将に西日本の大名を中心に9つの軍団を編成。その総兵力は18万となりました。本営は昨年10月から急ピッチで築いた肥前名護屋城とし、壱岐、対馬を中継地点に設定。また、徳川家康(51歳)を筆頭とした関東・東北諸大名は肥前名護屋城に待機。まさに、日本中の大名を動員した大遠征だったわけです。

 第一軍となった小西行長(38歳?)と宗義智(25歳)は、あまり知られていませんが、義理の父子という関係であります。行長の娘が、義智の正室だったわけです。義理の父子を中心とした第一軍1万8000は、4月12日に対馬の大浦港を出港。翌朝になって釜山に上陸し、釜山城に向います。第一軍は、城内に「仮途入明」を要求し、開城降伏を促しましたが、釜山の城主鄭撥(ていはつ)は、城門を堅く閉じてこれを拒否。早朝6時頃から、日本軍の総攻撃が始まりました。
 日本軍は、釜山城の西の高台を占拠してここから鉄砲の猛射を浴びせます。朝鮮軍は矢で応戦しますが、やがて城主の鄭撥が被弾して負傷したことをきっかけに、日本軍が戦機をつかみ、釜山城は1日で陥落しました。
 翌4月14日。第一軍は釜山の北方15kmの地点にある東莱城に迫ります。第一軍が
「戦わないのなら道を通せ。戦うなら相手になる」
と要求したことに対し、東莱城の守将・宗象賢(そうしょうけん)
「死ぬのは簡単だが、道を通すのは難しい」
と断固拒否。この日のうちに戦いが始まりました。宗象賢は陣頭に立って指揮をとりますが、第一軍の猛攻の前にわずか半日で城は陥落。わずか2日で、日本軍は釜山と東莱の城を落として上陸地点を確保。4月17日には第二軍の加藤清正(31歳)、鍋島直茂(55歳)が釜山に上陸し、日本軍は足場を確保したわけです。

 日本軍は中央を第一軍、東路を第二軍、西路を第三軍と三方面から軍を進め、快進撃はさらに続きます。4月27日には中央を進んだ第一軍が忠州の戦いで朝鮮軍を撃破。これを受けて、5月1日には朝鮮王・宣祖が首都の漢城(ソウル)を放棄して平壌に逃亡。5月3日に第一軍が漢城に入城します。開戦から一ヶ月も経たずに首都が陥落してしまったわけです。この勝利の報に、秀吉はたいへんな喜びようだった、と伝えられています。5月28日には大坂城の黄金の茶室を名護屋城に移して茶会を催し、6月2日には秀吉自身が渡海しようとしますが、これは家康や利家に止められて中止となりました。それほど日本軍の快進撃は凄まじく、5月29日には高麗の首都であった開城を占領。6月15日には小西行長黒田長政らが平壌までも陥落させてしまいます。7月23日には加藤清正が会寧で2人の朝鮮王子を捕縛する、という大手柄も立てました。これに対して、朝鮮王・宣祖は鴨緑江方面に逃亡し、ひたすら明の援軍を請うのみで、自分達で対処しようという様子がうかがえません。
 これらの情勢に対し、明は戴朝弁(さいちょうべん)祖承訓(そしょうくん)ら5000余の軍を派遣し、7月16日に平壌を攻撃しますが、この程度の軍勢では逆襲に遭って敗走するという、有様でした。
 勝利続きの日本軍でしたが、これに一矢報いたのが李舜臣りしゅんしん:48歳)です。李舜臣は麗水を根拠地として、形勢挽回のための水軍を編成していました。6月28日、秀吉は脇坂安治(39歳)、加藤嘉明(かとう よしあき)九鬼嘉隆(くき よしたか)らに朝鮮水軍の掃討を指示。ところが、功を焦った脇坂安治が抜け駆けして単独で出撃。7月7日に、釜山南東の巨済島と固城半島の間で李舜臣の船団と、脇坂安治の船団60余隻が遭遇し、戦闘となります。地理に明るい李舜臣の船団は、暗礁が多くて海峡が狭い閑山島の沖に脇坂安治を誘導。亀甲船と呼ばれた鉄装甲の軍船を先頭に押し立てて反撃に出、脇坂水軍は39隻を撃沈されて敗走してしまったのです。
 開戦以来、敗北続きだった朝鮮軍にとって、この閑山島沖での勝利は大きな励みになり、朝鮮軍全体の士気が向上したと、伝えられています。

 しかし、二人の王子を捕らえられ、漢城、開城、平壌といった主要都市まで占領されてしまった朝鮮軍の不利は否めません。明は、沈惟敬(しんいけい)を使者として、秀吉軍に講和を提案します。元々、開戦には反対だった小西行長は、これを好機と考え、勘合貿易の再開を条件に、明と講和を提案。沈惟敬も、これを政府の裁可にかけるため、8月29日に50日間の休戦協定が結ばれました。
 ところが、休戦期間協定が伝わらなかったのか、緒戦を勝利で飾った李舜臣は、9月2日に軍船を率いて釜山を攻撃し、激戦の末に、秀吉軍の軍船100隻余を沈めるという戦果を上げますが、それ以後は目立った戦果を上げることはできませんでした。文禄2年(1593年)2月8日に再度、釜山を攻撃しますが失敗。3月8日に熊川を攻めますがこれも失敗。文禄3年(1594年)9月29日には巨済島長門浦を攻めますが、福島正則軍の反撃に遭って撤退しています。

第一次晋州邑城攻防戦

 開戦初期の快進撃により、漢城、開城、平壌といった主要三都市を占領した秀吉軍でしたが、李舜臣水軍や「義兵」の抗戦などにより、全羅道には進出することができていませんでした。全羅道は当時、朝鮮でも有数の穀倉地帯であったことに加え、李舜臣水軍の基地を陸上から攻撃することができる、という軍事的な観点からも、全羅道への進出が、秀吉軍の課題となっていました。10月初旬、金海に駐屯していた細川忠興長谷川秀一木村重茲(きむら しげとも)加須屋真雄太田一吉加藤光泰らが約2万の兵を率い、全羅道の入口である「晋州邑城」に出陣。10月4日には晋州邑城を完全に包囲しました。この時、晋州邑城を守っていたのは晋州牧使・金時敏(きんじびん)と「義兵」ら合わせて3800ほどであり、兵力の差は歴然としていました。
 この戦いは、結局は秀吉軍の敗北に終わったためか、日本側にはほとんど記録が残っていないそうです。朝鮮側の記録によると、秀吉軍は当初、威嚇で開城降伏させようとしましたが、籠城軍がまったく応じませんでした。そこで、城を見下ろすことができる楼台を作り、鉄砲弓矢で攻撃しましたが、籠城軍は大砲でこれを攻撃したために戦果を揚げる事ができませんでした。最後は、退却すると見せかけて軍を二手に分け、夜襲を敢行しますが、激戦の末に敗退。やむを得ず撤退した、となっているそうです。籠城軍も、指揮官である金時敏が討死するなど、被害が大きかったために退却する秀吉軍を追撃することはできなかった、と伝えられています。

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<参考>
・新日本史B(桐原書店)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・日本全史(講談社)
・秀吉の野望と誤算(文英堂)

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