李舜臣率いる水軍が活躍しているものの、全体的には敗色濃厚だった李氏朝鮮ですが、ここでついに本格的な明の援軍がやってきます。李如松(りじょしょう)将軍率いるおよそ4万3000の軍団です。李如松の家は明の軍人一家であり、李如松自身も武勇の誉れ高い将軍でした。彼に直属の軍は「李家軍」と呼ばれた李家の私兵団で、その勇猛さは明の中でもたいへんな評判であったそうです。
文禄元年(1592年)12月23日、李軍は鴨緑江(おうりょっこう)を渡って朝鮮に入り、平壌を目指して南下します。年が明けて文禄2年(1593年)1月1日に、副将の査大受(さたいじゅ)を使者として派遣します。目的はなんと「騙まし討ち」でした。平壌郊外の順安で小西軍の使者と会見し
「明は講和を受け入れた。その使者として沈惟敬が間もなくやってくる。」
と伝えます。もちろん嘘です。しかし相手は、もともと開戦したくなかった小西行長ですから、この話を喜んで受け入れます。1月3日には、家臣の竹内吉兵衛ら20名を迎えの使者として順安に送りますが、待っていたのは伏兵でした。竹内ら3名が生け捕りにされ、残りは囲みを突破して平壌に逃走。事の次第を知った行長は大いに怒り、応戦の準備を整えますが時既に遅く、明軍とこれに呼応した朝鮮軍によって、平壌は完全に包囲されてしまいます。この時、平壌にいた秀吉軍は行長の他に宗義智、松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前、五島純玄ら1万5000ほどでした。
明・朝鮮連合軍の攻撃は1月6日から開始。連合軍は、仏狼機(ふらんきほう)、大将軍砲、霹靂砲(へきれきほう)(←散弾砲)と呼ばれた大砲を使って攻撃を加えます。当時としては、かなり強力な重火器であったそうです。対する秀吉軍は、火縄銃の性能・運用が連合軍よりも優れていたそうです。しかし、攻城戦における重火器の攻撃は強力なものであり、1月7日には平壌の外郭が破られて、秀吉軍は内郭に立て籠もります。まさに「必死」の状態です。李如松は、秀吉軍の火縄銃による被害が大きくなることを怖れて、包囲網の一角は開けておいて、敵軍が退却するように誘導します。実際、この日の深夜、行長らはこの退却路を通って、凍結している大同江を渡って南に落ち延びて行きました。しかし、何かしらの不備があったのか、連合軍がこれに気付いたのは翌朝になってからだったのです。査大受、李寧(りねい)ら3000余の追撃軍を出します。この追撃により、秀吉軍は360余が討たれました。
退却した小西隊が目指したのは、大友義統が守る黄州城でした。平壌からは1日で行ける距離のところです。しかし、義統は明の大軍(その数30万とも噂されたそうです)が襲来したことを知って恐れをなし、援軍を出すどころか、小西隊を収容することもしないで黄州を捨てて逃走する、という醜態を晒します。これは後に秀吉の怒りを買い、歴史ある豊後40万石を改易処分されることになります。黄州がもぬけの殻となっていたため、小西隊はさらに退却し、黒田長政が守る竜泉山城に入ることで、やっと危機を逃れることができました。明の大軍襲来と、平壌退却の報は秀吉軍に知れ渡ることとなり、平壌以南の守備隊はひとまず開城に集結。さらに漢城まで撤退して、ここで明・朝鮮連合軍を迎え撃つこと態勢を整えます。一方、李如松軍は1月18日に開城に到着。ここまで、日本軍の反撃をまったく受けなかったことから、「日本軍は戦意を失った」と考えて漢城奪回作戦に乗り出します。李如松軍は、騎兵を中心とする北方系民族の部隊と、大砲など重火器を主力とする南方系民族という、二つの大きな派閥があったそうです。漢城攻略はたやすいと考えた李如松は、自分の派閥である騎兵を主力とした北方民族で手柄を立てるために、副将の査大受を先鋒として数千の兵をつけ、その後に李如松自身が率いる二万で先行し、南方民族の砲兵部隊は後から追いかけさせるという編成で漢城に向いました。
明軍を迎撃するに際し、石田三成、大谷吉継、増田長盛の三奉行は籠城を主張する一方で、小早川隆景ら毛利軍と立花宗茂(26歳)は、迎撃を主張して対立します。結局、明の大軍が陣容を整える前に攻撃するしかない、という意見が大勢を占めたために、迎撃作戦が展開されることとなりました。
秀吉軍の先鋒となったのは、小早川隆景らの推薦を受けて、勇将の誉れ高い立花宗茂とその配下の3000人でした。両軍の戦いが始まったのは1月25日の、斥候部隊同士の小競り合いでした。奉行の加藤光泰、前野長康らが、昌陵(現在の高陽市)あたりを視察していたところ、査大受の斥候部隊と遭遇し、包囲されてしまいます。ここで小規模ながらも戦闘になり、秀吉軍は60余が討たれます(『懲録』では百余)。加藤、前野は漢城に帰還し、事態を報告。翌日1月26日未明に、立花宗茂率いる先鋒隊3000余が漢城を出陣します。『朝鮮軍物語』(←十時伝右衛門の部隊で戦った天野源右衛門の覚書と伝えられる書物)によると、宗茂は出陣に際し、奉行や諸将から「明軍との交戦は極力避けるように」と言われ、宗茂もこれには了解したと伝えましたが
「明軍本隊と遭遇して退くことができなくなった場合は、開戦に踏み切る。その時は、漢城に報告する。」
と約束した、と伝えられています。宗茂軍は、先陣に家老の小野和泉、立花三右衛門率いる700人、中陣は十時伝右衛門、内田忠兵衛率いる500人、その後に立花宗茂と実弟の高橋直次(たかはし なおつぐ)率いる本隊2000人、という構成でした。立花軍は、暗闇に紛れて漢城の北に向かいます。
立花軍と明軍が遭遇したのは漢城から北西に18kmほどに位置する「碧蹄館」(へきていかん)の付近でした。ここは、明の使節などを接遇する宿駅です。この一帯は5kmほどの細長い渓谷になっているそうです。査大受の先遣部隊と宗茂の斥候足軽が「レイ(石へんにタレをつけた「萬」)石嶺」という小山で遭遇して戦闘となり、立花軍がこれを追い払います。さらに、後方に明の大軍が続いていることを知り、これを宗茂に報告。宗茂も、出陣前の約束のとおり、「明軍本隊との交戦は避けられない」と漢城に使い番を送り、全軍を「レイ(石へんにタレをつけた「萬」)石嶺」の手前の「弥勒院」に進軍し、午前6時頃に査大受の部隊との戦闘に突入しました。この戦闘で、中陣の十時伝右衛門が先陣を越えて前線に出ます。対する明軍は2000〜3000の兵でしたが、鉄砲組の射撃で撹乱した後、抜刀組が明軍騎兵に斬りかかって奮戦。敵軍を「望客ケン」(ぼうきゃっけん)(←ケンは山へんに見)という小山まで押し込みます。ここで、査大受の本隊7000が左右から救援に駆けつけ、十時の部隊を包囲。十時勢は鉄砲でこれに応戦しますが、7000と500弱では多勢に無勢。さらに、霹靂砲の砲撃を受けて崩れ、十時伝右衛門以下、73名が討死します。
十時勢が敗走したのに代わり、先陣の小野和泉、立花三右衛門が戦いますが、大軍と霹靂砲を相手に苦戦。総崩れとなりかけましたが、立花宗茂、高橋直次兄弟の本隊が駆けつけ、明軍の右翼に回って側面から突撃を開始。これにより、明軍は総崩れとなって退却してしまいます。こうして、碧蹄館の戦いの緒戦は、立花宗茂軍の奮戦によって、秀吉軍の勝利となりました。『朝鮮軍物語』では、この時に「2000余の敵を討ち取った」と、いささか誇張されて書いています。朝鮮側の『宣祖実録』では「前進して望客ケン下に襲撃して克たず。已にして先鋒参将李寧等の軍来たりて之を援く」とあり、明軍の先鋒隊が負けたとなっています。『毛利家記』では「十時伝右衛門とて数度勇の誉れある者。真っ先に進み戦しに、大勢に押しつつまれて討たれ、其外究鏡(←金へんはつかない)の者73人、枕を双べて討たれ、手負も数十人也。敵をも六百余討ち捕し。然れば先手に有りし唐人ども、同勢の中に引取りし」と記している。この戦いは午前6時から11時ぐらいまで、およそ5時間にも及び、立花軍も十時をはじめ死傷者は200余名にのぼりました。宗茂は、敗走する明軍が先鋒隊に過ぎないことを知っていたので深追いはせず、「レイ(石へんにタレをつけた「萬」)石嶺」付近の小丸山に陣をはって休息するとともに、味方の援軍を待ちます。『毛利家記』によると、この時大谷吉継が前線までやって来て、宗茂の奮戦を讃え、速やかに漢城に引き上げることを強く勧めましたが、ちょうど到着した小早川隆景と一緒にこれに反対し、明軍本隊との決戦に臨む旨を表明した、となっています。
さて、宗茂から「開戦」の報告を受け、漢城に待機していた秀吉軍は続々と碧蹄館に向いました。二番隊として小早川隆景率いる約8000、三番隊として毛利秀包、筑紫広門の部隊約5000、四番隊に吉川広家の約4000、次いで本隊として五番隊の黒田長政の約5000、六番隊は石田三成、大谷吉継、増田長盛ら奉行衆の約5000、七番隊に加藤光泰、前野長康ら約3000、最後に総大将として宇喜多秀家の約8000、総計約4万という構成でした。小早川隆景は、小丸山で休息している立花宗茂と交替して前線に出ます。対する明軍も、李如松率いる本隊が、先鋒戦に敗れて敗走してきた査大受の軍を収容して前進し、その数およそ2万余で、再び望客ケンに布陣します。ここに、ついに本隊同士がぶつかりあうことになったわけです。
まずは、小早川隊の先陣である粟屋四郎兵衛と井上五郎兵衛ら3000人が
明軍に攻撃を開始。明軍は大砲などで応戦して大軍を繰り出したため、粟屋隊は敗走してしまいますが、井上隊が鉄砲の一斉射撃でこれを押し留めると、小早川隆景率いる本隊は小丸山を駆け下りて敵陣に突入し、刀槍を用いた白兵戦が繰り広げられます。この時、明軍は日本刀の切れ味にたいへん驚いた、という話が残っています。この様子を見ていた立花宗茂は再び軍を率いて右翼に切り込む形で側面から攻撃。さらに、左翼には宇喜多勢が攻撃を仕掛けたため、明軍は三方向から攻撃を受けることとなり、戦況は次第に秀吉軍に傾いてきました。李如松は、形勢挽回のために前線に出て部下を叱咤激励するとともに、自らも弓で応戦するなど奮戦しましたが、戦の帰趨が明らかになると撤退を指示。後退→応戦→後退という正退法を見事に演じて、敗走することなく整然と引き上げていったそうです。秀吉軍は、退却する明軍にある程度追撃をかけましたが、深追いはしませんでした。立花宗茂は徹底的に追撃するべきだと主張しましたが、今度は小早川隆景が静止したため、宗茂も軍を留めました。
こうして碧蹄館の戦いは秀吉軍の勝利で幕を閉じました。平壌、開城は奪われたものの、明の援軍がそれ以上南下するのを防いだ、という意味では、今回の勝利の意味は大きかった、と考えられています。
「幸州山城」は現在の京畿道高陽市にあたり、漢城から15kmほど漢江を下流に下ったあたりに位置しており、天然の要害の地であったそうです。従って、ここは高陽方面から漢城を攻撃する際に拠点となりうる重要拠点、と考えられていました。幸州山城を守っていたのは、全羅道巡察使の権慄(ごんりつ:46歳)らであり、その兵力は3000〜4000ほど、だったそうです。碧蹄館の勝利により、明の援軍が漢城に押し寄せることを防いだ秀吉軍ですが、幸州山城を放置していると、後々の漢城防衛戦の時には大きな障害となることは十分予想されることでした。そこで、2月12日未明から、およそ3万の兵を投入して、幸州山城の攻略に乗り出します。秀吉軍は、一番隊に小西行長、二番隊に石田三成、増田長盛、大谷吉継ら三奉行。三番隊に黒田長政、宇喜多秀家、吉川広家、小早川隆景という構成で、義州街道を進軍。まずは、幸州山城の北西にあった支城に攻撃を仕掛けました。この支城を守っていたのは、1000人ほどの僧兵でした。秀吉軍は、歩兵と騎兵が混ざった編成だったのに対し、朝鮮軍は震天雷などの重火器を用いて応戦したために苦戦。そこで、枯れ草などを用いた火攻めに切り替えると、消火と防戦の両方に対応しなければならなくなった僧兵は壊乱して敗走し、幸州山城本城に逃走します。本城の兵も、支城が落ちたことを知って恐れおののき、一部は逃走しようとしましたが、守将の権慄は逃亡兵を斬り捨て、先頭に立って督戦したため、秀吉軍は支城の陥落に付け入って本城まで落すことはできませんでした。
本城の攻防戦は午前6時に始まり、午後4時まで続き、この間3度攻撃しましたが、いずれも攻めきれずに失敗。籠城軍は、川から船で矢の補給を受けることができるため、しばらくは籠城に耐えうる可能性が高かったことに加え、全羅道から援軍が来る気配があったため、秀吉軍はついに攻撃を断念。退却します。この時、枯れ草を集めて死者を火葬したため、後で朝鮮軍が死体の捜索に来た際に得た秀吉軍の首級の数は130と、伝えられています。戦死者の数は、もっと多かったと考えられています。
こうして、幸州山城の攻防戦は朝鮮軍の勝利で終わりましたが、朝鮮軍も戦力の低下が大きかったそうです。守将の権慄は、二回目の攻撃は防ぎきれない、と判断したため、間もなく城を放棄して撤退しました。結果的には、幸州山城の脅威は去ったわけですが、攻城戦に失敗した秀吉軍の戦力・士気の低下は大きかったようです。
3月。漢城に立て籠もる秀吉軍に一大事が起こります。明軍の経略(←参謀の意味)・宋応昌(そうおうしょう)が、漢城郊外の龍山にあった兵糧貯蔵庫を襲撃して焼き払うという戦果を挙げました。この兵糧庫には、漢城駐留軍約5万人の二か月分の兵糧:1万4000石が貯蔵されていたため、漢城駐留軍は明軍と講和することを余儀なくされました。宋応昌も講和に応じて、使者として再び沈惟敬を派遣しました。小西行長、加藤清正、沈惟敬の三者で交渉した結果、秀吉軍が漢城を撤退することと、明から講和の使者として謝用梓(しゃようし)、徐一貫(じょいっかん)
を送ることで合意となり、4月18日、一年弱にわたる漢城駐留は終わりを告げ、秀吉軍は漢城を撤退することになったのです。
5月15日、明使は小西行長、石田三成に伴われて肥前名護屋城に到着。ところが、秀吉は明が降伏してきたと思い込み、以下の講和七条件を提示します。
一、明の皇女を天皇の后妃として送ること。
二、勘合貿易を復活すること。
三、日本、明の大臣は相互に友好の誓詞を交換すること。
四、朝鮮には漢城と北の四郡を返還すること。
五、朝鮮から人質として王子と大臣を差し出すこと。
六、加藤清正が捕らえていた二人の王子は返還すること。
七、朝鮮の大臣は、以上の条件に違約ない旨の誓詞を差し出すこと。
明使はこの条件に驚き、到底受け入れられるものではない、と拒否。しかし、小西行長、石田三成らは明使に対し、「本国には随意に書き直して報告すればよい」と説得。明使がこれに応じたため、双方が納得しない内容で、表面上だけ講和交渉が進む、という異例の事態に発展します。ともあれ、講和の答礼使として、小西行長の腹心である内藤如安(ないとう じょあん)が任命され、
6月28日に明使とともに肥前名護屋城を出発。明の首都である北京に向います。しかし、形だけの講和交渉がはかどるわけがなく、明の皇帝は、講和の前提として、秀吉の降伏の上表を提出せよ、と厳命したために紛糾。内藤らの北京入りはおよそ一年半後の文禄3年(1594年)12月まで延期されることとなりました。この間、朝鮮駐留している秀吉軍と明・朝鮮連合軍の戦いは継続されていました。
時は、明使が肥前名護屋城に到着する頃に遡った文禄2年(1593年)5月。明との交渉に際し、朝鮮南部だけでも確保する必要がある、と考えた秀吉は、全羅道の制圧のためには、去年失敗した晋州邑城の攻略が必要だとし、新たに毛利秀元、伊達政宗、浅野長政を増派。金海、昌原付近に集合し、5月20日に晋州邑城の攻略を命令。その構成は、一番隊に加藤清正、黒田長政、鍋島直茂、毛利吉成、島津義弘ら2万5624人。二番隊に小西行長、宗義智、長谷川秀一、細川忠興、浅野長政、伊達政宗、黒田如水ら2万6182人。三番隊に宇喜多秀家、石田三成、大谷吉継、木村重茲ら1万8822人。四番隊に毛利秀元の1万3600人。五番隊に小早川隆景、立花宗茂らの8744人。合計9万2972人となり、去年の4倍近い兵力を投入して攻略に乗り出しました。
一方朝鮮軍は、義兵司令官である金千鎰(きんせんいく)や忠清道兵使の黄進(おうしん)らがそれぞれ兵を率いて晋州邑城に立て籠もり、官兵・義兵を合わせて約7000人ほどの軍勢となりました。しかし、幸州山城の戦いで活躍した権慄や一部の義兵の将たちは、救援は不可能と見て参陣を断念します。また、明の援軍もこの頃には南下しており、李如松が漢城に駐留していたのをはじめ、いくつかの拠点に明軍が駐留していました。金千鎰は明軍にも援軍を要請しますが、明軍は「城を空にして、戦いを避けるのが良策。」と援軍を拒否します。こうして、二回目となる晋州邑城攻防戦の火蓋が切って落とされました。
6月21日、秀吉軍は晋州邑城を完全に包囲。翌22日から総攻撃が開始されます。秀吉軍は、門の近くに土を積んで小山を作り、さらに楼台を建てて上から鉄砲の射撃を浴びせる、という攻撃に出ます。また、「亀甲車」という攻城兵器も用いられました。これは、木で大きな四輪車を作り、この中に兵が入って敵の攻撃を防ぎながら城壁に近づき、鉄槌などで城壁や門を破壊する、というものです。木製だったので、火攻めで炎上してしまいますが、秀吉軍は諦めずに「亀甲車」による攻撃を続行し、6月29日午後2時頃、ついに城壁は破られ、秀吉軍が城内に突入していきました。宇喜多秀家の家臣である後藤基次が一番乗りの功を立てたのは、この時です。黄進ら、朝鮮軍の将は大方が討死し、大将格だった金千鎰は、落城後、川に身を投げて自害。兵士たちも多くは討死し、城内には屍の山ができた、と伝えられています。
こうして、第二次晋州邑城攻防戦は秀吉軍の勝利で幕を閉じました。この戦いの後、秀吉軍と明・朝鮮軍の大規模な戦いは少なくなります。明軍は、講和交渉が進んでいることを理由にし、積極的には動かず、秀吉も朝鮮在陣諸将に在番の城を定めました。彼らはそれぞれの地に、日本式の城郭(朝鮮人が「倭城」と呼ぶ)を築き、長期駐屯の態勢に入りました。
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<参考>
・新日本史B(桐原書店)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・日本全史(講談社)
・秀吉の野望と誤算(文英堂)
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