慶長の役

講和交渉の破綻

 明と秀吉の講和交渉が始まりましたが、それはうわべだけのものでした。明の神宗皇帝は秀吉の降伏を講和の条件としていましたが、秀吉が降伏するはずもありません。そこで、交渉を担当していた小西行長沈惟敬の手によって降伏の上表が偽作され、内藤如安はこれを手にして神宗皇帝に謁見することとなりました。明は講和を認めると共に、秀吉を「日本国王」に任命するという冊封使を派遣しました(正使に李宗城、副使に楊方亨)。この一行は朝鮮で秀吉軍の撤退を督促しつつ、文禄4年(1595年)11月に漢城を経由して釜山に到着。しかし、年が明けて文禄5年(1596年)3月に事件が起きます。朝鮮側から、秀吉が当初出した講和七か条のことを知らされた李宗城が、恐れをなして釜山から逃亡してしまう、という事件です。
 この事件と並行して、講和交渉にもう一つの問題がありました。加藤清正が、小西行長とは別のルートで講和交渉を進めており、その際には当初の秀吉の七か条を厳格に提示していました。清正は行長のうわべだけの交渉を、秀吉の意をないがしろにするものだと憤っていたわけです。しかし、行長から見れば清正の行動は明との交渉を難航させる原因だとして憤り、石田三成と共同して清正を交渉の妨害者として弾劾。その他に、清正が明の使者に対して追いはぎまがいの行為を行ったことや、自らを「豊臣朝臣」僭称していることなどが挙げられていました。秀吉も石田、小西の申請を採り、清正を国内に呼び返してしまいます。慶長元年(1596年)6月、清正は失意のうちに釜山を出港して帰国。伏見の自宅で謹慎し、処分を待ちました。しかし、7月12日に発生した慶長大地震の際に真っ先に秀吉のもとに駆けつけて感激させ、この件については不問に付す、ということで落着しました。しかし、清正にとって石田・小西らはとんでもない讒言者であり、両者の間には修復できないほどの亀裂が生じた、と想像できます。
 ところで、正使・李宗城が逃亡してしまった小西・石田らと明使一行は困りましたが、新たな正使の派遣を要請するわけにもいかず、副使の楊方亨を正使とし、沈惟敬を副使に装う、というこれまたうわべだけの使節を作り上げます。一行には朝鮮通信使も加わり、8月に大阪に到着。9月1日に大坂城にて明使一行と会見します。自分の要求が通った、と思っている秀吉ですから、明使が読み上げる講和内容を知って当然激怒し、講和は決裂となりました。うわべだけの交渉を進めてきた小西行長は処刑されかけますが、石田三成ら奉行衆が承知のうえでやってきた、と必死にとりなしたので処刑は免れました。ちなみに、小西・石田に共謀して狂言のような講和交渉を行ってきた沈惟敬は、帰国後に罪を問われて処刑されたそうです。

慶長の役の始まり

 講和が決裂したことにより、秀吉は再び遠征軍を送ることを決めます。慶長2年(1597年)2月、再び動員令と進攻部署の割り当てを発表し、総勢14万となる遠征軍を派遣します。7月、巨済島沖の漆川梁(しつせんりょう)で、藤堂高虎脇坂安治加藤嘉明の水軍が、元均(げんきん)が率いる朝鮮水軍を撃破。これを皮切りに秀吉軍の快進撃が始まります。8月12日宇喜多秀家を総大将とし、島津義弘小西行長宗義智蜂須賀家政ら5万6800の軍勢が南原城攻撃を開始。南原城には、明の楊元(ようげん)李新芳(りしんほう)が率いる3000兵と、李福男(りふくなん)率いる1000の朝鮮軍が合流して防衛にあたります。激しい攻防の末、四日目に南原城は陥落しました。
 全羅道から忠清道にかけての方面には、毛利秀元を総大将とし、加藤清正黒田長政鍋島直茂長宗我部元親ら2万7000の軍勢が進軍。黄石山城を落とし、全羅道の道都である全州を占領します。黒田長政軍は、そこから忠清道に進攻し、9月8日に稷山(しょくざん)で、明の解生(かいせい)率いる騎兵部隊と遭遇し、交戦。この戦いはほぼ互角でしたが、黒田隊に続いていた毛利秀元軍が銃声を聞きつけて駆けつけると、黒田軍を支援したために、明軍は退却します。しかし、文禄の役の時とは異なり、朝鮮軍も戦の準備を整えているうえに、明の援軍も各拠点に駐留しているため、年内に漢城を攻略することは難しいと考えられます。寒さの厳しい冬季に攻城戦となるのを避けるため、秀吉軍は占領地を放棄し、釜山付近の沿海部に築かれた「倭城」に立て籠もり、冬を越えてから再進軍する構を見せました。

蔚山倭城の戦い

 蔚山(うるさん)倭城は、釜山から北東に50kmほどの沿海部に位置しています。ここに「倭城」が築かれたのは慶長の役が始まって間もない頃で、慶長2年(1597年)11月初旬から工事が急ピッチで進められ、12月下旬には全体像がほぼ完成しました。この工事を担当したのは、浅野幸長毛利秀元の部将・宍戸元続(ししど もとつぐ)加藤清正の配下の部将たちでした。12月22日。この日は、この城の在番となる加藤清正に城が引き渡される日でした。この日の未明、明・朝鮮連合軍が突如現れ、駐留していた秀吉軍に攻めかかってきたのです。不意を討たれた上に、冬季なので濠に水を入れることもしておらず、大軍の攻撃を防ぐことは難しいと判断した浅野幸長と軍目付の太田一吉は、本丸を中心とした主郭部分に籠城します。この時、加藤清正は西生浦倭城にいましたが、この日の明・朝鮮軍の襲来の報に触れると、20名ばかりの側近を集めて関船に乗り込んで、この日の夜半に海路から蔚山倭城に入城しました。
 蔚山倭城を包囲したの明・朝鮮連合軍の総勢は、麻貴(まき)を総大将とする5万7000の大軍であり、蔚山倭城を包囲すると激しい攻撃を加えました。攻撃は24日まで、3日間にわたって行われましたが、蔚山倭城の守りは固く、力攻めは被害が大きいと判断して兵糧攻めに切り替えます。籠城軍は、不意討ちだったために兵糧の準備などもしていなかったため、すぐに兵糧は底をついてしまいました。そのため、城兵たちは尿を飲み、城壁の土をかんで飢えを凌いだ、と凄惨な籠城戦となったことが伝えられています。援軍が来なければ、落城は時間の問題でしたが、ついに援軍は年内に姿を見せませんでした。年が明けて慶長3年(1598年)1月1日浅野幸長加藤清正 は、「援軍が来ないなら、覚悟して死ぬまで戦いますので、落城の際は、勇敢に戦ったことを秀吉様にお伝えください」と、最後まで抗戦する旨を記した連署の手紙を釜山方面の友軍に出しました。
 釜山方面の秀吉軍も、蔚山の部隊を見捨てることはせず、主君・清正を助けるべく、清正配下の主力部隊7000に、逆に家臣を救うべく、毛利秀元率いる3900に加えて、鍋島直茂1600、黒田長政600、蜂須賀家政2200の他、加藤嘉明長宗我部元親生駒一正らの部隊が加わり、総勢2万余の援軍が1月2日に西生浦城を出陣します。翌日3日には、先鋒隊が蔚山郊外の小山を占領して、援軍が到着したことを城内に知らせました。これに対し、明・朝鮮連合軍は大いに狼狽します。実際には、援軍といっても2万ほどであり、彼らの軍の半分程度なのですが、城の内外から挟撃されることを恐れたのか、1月4日未明から、総攻撃を開始します。しかし、援軍到着の報に接し、士気が回復した籠城軍の守りは固く、連合軍は昼前までに死者4000を越えるという甚大な損害を出してしまいます。さらに、外から救援軍の本隊が連合軍に襲い掛かったために総崩れとなった敗走。『明史』に「士卒死亡殆二万」と記されるほどの大損害を被って敗退したのでありました。
 こうして、蔚山倭城の戦いは秀吉軍の勝利となり、加藤清正らは危地を脱出したわけですが、この戦いの後で騒動が起こります。秀吉軍は、敗走する明・朝鮮連合軍を追撃しなかったのです。上記のような大損害を出して逃走する連合軍を追撃すれば、戦果はさらに拡大し、ひいては戦局が大きく秀吉軍に傾いた可能性も考えられます。なのに、現地の秀吉軍はそれをしなかったわけです。追撃しなかった理由としては、援軍も急いでいたために兵糧の準備が少なく、追撃するほどの戦力を持っていなかった、ということになっていますが、この行為は石田三成ら奉行衆の目に止まり、秀吉の耳に入ることになります。
 これに加えて、朝鮮在陣諸将の間で、戦線を縮小する案が浮上しはじめました。そもそも蔚山倭城は東部進出のための前線基地として築かれましたが、「防衛」という観点から見ると、防衛線が長く薄くなってしまう一つの要因になっている、とも見ることができます。同様に、小西行長が守る西端の順天倭城も同じであり、両城を放棄して戦線を縮小する、という案です。この案に対して、毛利秀元は反対していましたが、秀吉にお伺いの書状を送ると、秀吉からは「戦線縮小など臆病者」と非難されてしまいます。しかし、現地の諸将は秀吉の意向に従わず、蔚山倭城の放棄を決定。東部戦線の前線基地は西生浦倭城とし、加藤清正を在番として残します。西部戦線の順天倭城と、宗義智が守る南海倭城も放棄しようとしましたが、小西・宗はこれに反対。また、内陸の梁山倭城も放棄したい、という決定事項と提案をまとめた書状を秀吉に提出したのです。これを知った秀吉は再び激怒します。梁山倭城の放棄は認めていますが、蔚山倭城と順天、南海倭城の放棄は許し難い、と厳しく非難。朝鮮在陣諸将と秀吉の間に、大きな溝ができてしまっていたのです。 このような状況下で、軍目付の福原長尭(ふくはら ながたか)らが帰国し、秀吉に朝鮮在陣諸将の行動を職務怠慢として報告します。福原は石田三成の娘婿(妹婿とも)であり、三成ら官僚派の人物でした。この福原の報告により、蜂須賀家政黒田長政は、蔚山倭城の戦いで追撃をしなかったことに加え、明・朝鮮軍が攻めてきた時にまともに戦おうとしなかったことが罪として上げられ、その他には早川長政(はやかわ ながまさ)竹中重隆(たけなか しげたか)毛利高政(もうり たかまさ)らは、軍目付でありながら秀吉の許可も得ず、諸将の言うがままに蔚山倭城の放棄を認めてその指示を出したことが不届きとされ、彼らの領国である豊後の知行を召し上げ、という厳しい処分が下されました。しかも、没収した領地は厳正な報告をした福原らに褒美として加増されることとなっています。これでは、福原らが前線の将を讒言して失脚させ、その領地を横領したと見られても不思議ではありません。ここでも官僚派と武闘派の関係に大きな亀裂が生じ、秀吉歿後の内乱の芽が生じることとなります。
 このような戦況の中、慶長3年(1598年)8月18日に、伏見城で秀吉が病没しました。秀吉亡き後、一時的に政権を担ったのは前田利家徳川家康です。8月25日、両者は徳永寿昌(とくなが ながまさ)らを使者として朝鮮に送り、明・朝鮮と講和したうえで撤退することを命じました。また、石田三成浅野長政を博多に派遣し、遠征軍の撤退事業を統括させます。しかし、秀吉の死は明・朝鮮に知れ渡ることとなり、追撃を決定。慶長の役最後の戦いが繰り広げられることとなります。

順天倭城の戦い

 伏見城で秀吉が没した8月、明は水軍を含めた四方面から秀吉軍の倭城を攻略する軍団を進発させました。その内容は
1.東路軍 総大将:麻貴 明兵2万4000 朝鮮兵5500 蔚山倭城攻略
2.中路軍 総大将:董一元 明兵1万3500 朝鮮兵2300 泗川倭城攻略
3.西路軍 総大将:劉テイ(「テイ」は漢字変換できず) 明兵1万3600 朝鮮兵1万 順天倭城攻略
4.水路軍 総大将:陳リン(「リン」は漢字変換できず) 明兵1万3200 朝鮮兵7300(李舜臣)
と、なっており、最初に戦闘が始まったのは順天でした。
 漢城を出発した劉テイは全州に到着すると軍を一旦停止。まずは順天の小西行長に使者を送り、和平をもちかけます。しかし、その一方で各部隊には担当部署を割り振り、水路軍の陳リンとも連絡をとって、9月19日に陸と海の両方から順天倭城を攻撃する、という作戦を立てます。9月18日、順天邑城に到着した劉テイは、行長に和議のための会見をしようと持ちかけます。行長はこれにかかり、翌日19日午前8時、平服姿で会見の場所に向います。しかし、途中で伝書鳩が乱れ飛び、伏兵が姿を現すと、行長は状況を察知して逃走します。罠が失敗したため、劉テイはすぐに軍を進め、午後4時頃には順天倭城に迫りますが、松浦鎮信の部隊が鉄砲で応戦して撃退。城の南西一帯を包囲して攻城戦の準備に取り掛かります。一方、水路軍の陳リン李舜臣は海上から順天倭城を攻撃する一方、近くの島にある基地を襲撃して兵糧300石余りと朝鮮人捕虜300人を奪還しました。翌20日には海陸から総攻撃をかけましたが、これはまったく戦果をあげずに失敗。連合軍は持久戦の構をとって、攻城兵器の作成に精を出します。総攻撃は10月2日に再度実施されますが、城に迫る連合軍は小西軍の銃撃に遭ってバタバタと倒れ、用意していた攻城兵器も銃撃でひるんだところに切り込みを受け、楼台も砲車も焼かれてしまい、失敗に終わりました。さらに、劉テイ陳リンと図って翌日3日に海陸両方から夜襲を決行することを約束しました。しかし、劉テイは約束を破って兵を出さなかったため、水路軍単独での攻撃となってしまいました。水路軍の攻撃も難航したあげく、潮が引き始めると浅瀬に乗り上げる軍船が続出。動けなくなった軍船に小西軍が泥濘を歩いて襲い掛かり、86隻の軍船が焼き打ちに遭い、乗り込んでいた兵も討死した、と伝えられています。
 やがて、泗川倭城攻略に向った中路軍が島津義弘の逆襲に遭って敗走したという報が伝わると、西路軍も順天倭城の攻略を断念。10月7日に包囲を解いて撤退します。敵を騙し、最後は味方をも騙した策謀将軍・劉テイの順天攻略戦は失敗に終わりました。水路軍も、10月9日に海上封鎖を解いて撤退し、順天倭城の戦いは秀吉軍の勝利となりました。

泗川倭城の戦い

 中路軍を率いた董一元の軍団には、東路軍も合流したために3万6000余に及ぶ大軍になっていました。 9月上旬、明・朝鮮連合軍は島津軍が放棄した晋州邑城に入城。これにより、南江を隔てて北に連合軍、南に島津軍が対峙する形になります。島津軍の前線基地は望晋倭城(守将:寺山久兼)と永春倭城(守将:川上久智)でした。董一元が晋州邑城から兵を動かさないことを見て、島津義弘は一計を案じます。義弘の陣中に、明の降将・郭国安がいました。郭国安は、董一元の部下である茅国器と知り合いであったことを利用し、郭国安を望晋倭城の城主とし、寺山と川上には、城を捨てて泗川倭城に退却するように命じます。9月20日、望晋倭城で火の手が上がります。郭国安の裏切りの合図です。茅国器はこれを見て南江を渡河。連合軍総勢もこれに続いて渡河し、まずは望晋倭城に入ります。東路軍の 麻貴は永春倭城も攻撃し、翌21日には昆陽倭城にも火を放ち、あっさりと南江の南岸を制圧します。しかし、これこそ島津家のお家芸ともいえる「釣り野伏」だったのです。9月28日、連合軍は泗川邑城を攻撃。ここを守っていた300の兵は、泗川倭城に退却するように義弘に命じられましたが、包囲直前に城外に打って出て激戦となり、およそ半分の150余名が討ち取られる、という甚大な被害を出して敗走します。泗川倭城では、島津忠恒が、自ら陣頭に立って明軍を攻撃したいと願い出ましたが、義弘は許しません。そうこうしている間に、明軍は泗川倭城の付近に「明日、泗川倭城を攻める」と書いた立て札を置きにきました。翌日10月1日午前6時半頃。連合軍は泗川倭城に押し寄せ、午前9時頃には城の柵すぐそばに迫り、大手門を破って塀を越えようとしたその時、「時分よきぞ!!」という義弘の号令のもと、島津鉄砲隊が一斉に火を吹きました。この一斉射撃により、塀や柵に取り付いていた兵はほとんどが撃たれ、さらに攻城兵器の木砲が破裂し、爆薬に引火して連鎖爆発が起こるという大惨事に繋がると、連合軍は大混乱状態に陥ります。さらに、水の手口からは義弘率いる本隊が、昆陽筋からは北郷三久伊集院忠真らの部隊が切り込んだため、連合軍はまともに応戦することもできずに壊乱し、我先にと逃げ出す有様となります。
 茅国器は、島津勢が泗川倭城から出撃するのを見て「城内に兵は残っていない」と判断。多数の兵を集めて引き返し、城内に突入しようとします。これを見た島津忠長は100騎足らずの手勢を率いて進路に立ちはだかります。これに寺山久兼樺山久高らが助太刀に入ります。中でも久兼は、後方の輜重部隊を襲撃することで敵軍の混乱を招き、義弘も援軍を送ったので茅国器の部隊も敗走しました。総大将の董一元は、永春倭城と泗川邑城の間の石橋で、400〜500騎余りの軍勢で矢ぶすまを作り、なんとか応戦していましたが、川上久智の部隊が石橋を駆け抜けて敵陣に切り込むと、防ぎきれずに退却しました。
 こうして、泗川倭城の戦いは島津軍の大勝利で終わります。この戦いで島津軍が討ち取った敵軍の数は『征韓録』には3万8717となっています。かなり誇張されてはいると思いますが、戦果の大きさは秀吉軍全体が認めるものであり、これ以後、明・朝鮮連合軍は島津軍を「鬼石曼子」と呼んで怖れるようになりました。

露梁海戦

 泗川倭城の大勝利から間もない10月8日。和議と撤兵を伝える使者として徳永寿昌宮木豊盛が泗川倭城に到着しました。使者が伝えた内容によると、島津勢は泗川倭城を撤退して巨済島に移動し、順天倭城の小西勢と合流して釜山に帰る、という段取りになっていました。ところが、秀吉の死が水路軍総大将・陳リンの知るところとなると、状況が変わります。陳リン李舜臣は、順天倭城の小西勢の退路を断って殲滅する作戦に出ます。小西行長は撤退に際し、策謀家の 劉テイに多額の賄賂を贈って買収し、安全に撤退できるように軍を退かせることを約束させていました。ところが、順天倭城を船で出発してみると、退路には500隻もの連合軍の軍船が待ちかまえているわけではありませんか。驚いた小西勢は再び城に引き返すと、使者を出して劉テイに抗議しましたが、「自分は関与していない」とあっさり返答します。小西勢は退却することができずに敵に包囲されてしまったわけです。
 集合予定地点の巨済島には、島津義弘立花宗茂宗義智の軍勢が小西勢を待っていましたが、小西勢が包囲されていることを知ると、これを救援することを決めます。釜山からやってきた寺沢広高高橋直次らにも助勢を頼むと、10月17日夜に500隻の軍船を率いて順天倭城に向いました。秀吉軍の動きを知った連合軍は、南海島と朝鮮半島の間にある「露梁津」で迎撃するために出撃。明の副将・ケ子龍李舜臣 が先鋒となり、その後に総大将の陳リンが続きます。翌日10月18日午前2時頃、両軍は露梁津で遭遇し、戦闘が始まりました。連合軍の軍船は、大砲に加えて長大な矢(1.8〜3.6m)を発する兵器を装備しており、その火力は秀吉軍の軍船を凌駕していたそうです。また、近づいた船には火炎瓶を投げ込んで炎上させる他、軍船の舳先を敵船のわき腹にぶつけて撃沈する、という戦法を取り、秀吉水軍を徹底的に攻撃しました。秀吉軍も、火縄銃で応戦しましたが、形勢は次第に悪化。夜が明ける頃、秀吉軍の生き残りは南と東へそれぞれに退却を始めます。島津軍の樺山久高の部隊は引き潮の浅瀬に乗り上げて座礁したため、船を捨てて南海島に逃げ延びました。一方、連合水軍は追撃に移りましたが、この時、李舜臣に銃弾が命中。「勝敗はまだ決していない。私の死を隠して戦闘を続けるように。」と遺言して、朝鮮の英雄・李舜臣は最期を遂げるのでありました。この激戦のさなか、小西勢は順天倭城を脱出することに成功。南海島に漂着した樺山隊も収容し、秀吉軍は巨済島に帰還しました。
11月23日には加藤清正黒田長政鍋島勝茂らが、翌日には毛利吉成伊東祐兵らが、翌日25日には小西行長島津義弘立花宗茂らが釜山を出港して帰国し、12月上旬には博多に到着しました。しかし、この撤退の際にも問題が発生しています。加藤清正らは、小西勢が上記のように撤退に手間取っていることに業を煮やし、彼らを置き去りにするような形で帰国してしまったのです。おまけに、釜山倭城には火をかけるという行為に及びます。やっとの思いで釜山に帰り着いた小西行長は焼けてしまった釜山倭城を見て、どういう気分になったでしょうか。この撤退の件についても、蔚山倭城の戦いと同様に、後々の争いの火種となるのでありました。
 こうして、7年に及んだ文禄・慶長の役は終焉を告げるのであります。しかし、この遠征で発生した豊臣家の家臣団の内部分裂が、間もなく起きる「石田三成襲撃事件」、ひいては「関が原の戦い」の一因に繋がって行くのです。
 

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<参考>
・新日本史B(桐原書店)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・日本全史(講談社)
・秀吉の野望と誤算(文英堂)

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