朝鮮遠征諸将の撤退もなんとか完了して慶長3年(1598年)は暮れます。年が明けて慶長4年(1599年)正月、秀吉の遺命に従い、豊臣秀頼(7歳)は大坂城に移り、後見人として前田利家(63歳)が従います。徳川家康は伏見城にとどまり、五大老の筆頭として政務を司っていました。秀吉亡き後、事実上政権を担当するのは家康だったことは、当時ではほぼ公認されているものでありましたが、石田三成をはじめとした奉行衆はこれを苦々しく思っていたそうです。この時から、家康を頼りとする福島正則、加藤清正らと、三成を筆頭とする奉行衆の間には大きな亀裂が存在していました。
この年の正月下旬、徳川家康が内々に伊達政宗や蜂須賀家政と婚姻の約束をしていたことが露見し、三成ら奉行衆が家康を糾弾します。亡き秀吉は、大名同士が婚姻する時は、届出と許可が必要である、と決めていたのです。家康の行為は、明らかに遺命に背いています。しかし、一触即発の緊迫した状況の中、加藤清正、福島正則、浅野幸長、黒田長政らが手勢を率いて家康の屋敷に集結し、奉行衆と対立する態度を見せる、という行動に出ました。彼らは皆、亡き秀吉との縁が深い大名でしたが、その態度は明らかに「反三成」であり、人間関係を複雑にしています。
その他にも、家康暗殺未遂事件や、朝鮮から撤退する際の問題が蒸し返され、小西行長、寺沢広高と加藤清正、鍋島直茂が論争する、という揉め事が起きていましたが、徳川家康と前田利家の二大巨頭が存在しているうちは、武力衝突に至ることはありませんでした。
ところが、この年の閏3月3日、前田利家が大坂でその生涯を閉じます。これを契機とし、加藤清正、福島正則、黒田長政、藤堂高虎、細川忠興、浅野幸長、蜂須賀家政ら7人が三成殺害を計画し、実行しようとしたのです。翌日の閏3月4日、三成は親交が深かった佐竹義宣の援助を受けて伏見城に逃げ込みます。この騒動を収拾したのが、徳川家康でした。家康は、7人に鉾を収めさせる一方で、三成には居城の佐和山城で謹慎することを命じます。こうして、閏3月10日、家康の次男・結城秀康(ゆうき ひでやす)の警護のもと、三成は伏見を去って、佐和山城に戻りました。閏3月13日、家康は伏見の向島にあった屋敷から、伏見城内に移ります。また、閏3月19日、家康ら五大老は、蔚山倭城の戦いに関して責任を譴責された黒田長政と蜂須賀家政に対して、まったく落ち度がないことを確認すると共に、所領を没収された早川長政には豊後府内城とその領地を返還する、という決定を下します。この決定は、一年前の蔚山倭城の戦いに関する五奉行の決定は誤りであることを証明するものですが、三成が中央政府を追放された後に出されたところを見ると、いかに朝鮮遠征の際に生じた亀裂が深いものであったことかを類推できるでしょう。
7月、宇喜多秀家、毛利輝元、加藤清正、細川忠興、黒田長政ら、遠征に出陣した武将に対し、家康は帰国させます。また、上杉景勝は移封して間もなく、領国の仕置きが行き届いていないことを理由にして帰国。利家の跡を継いだ前田利長も、やはり領国の仕置きを理由に帰国し、五大老で中央に残っているのは家康だけ、という状況になりました。
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<参考>
・新日本史B(桐原書店)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・日本全史(講談社)
・秀吉の野望と誤算(文英堂)
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