会津戦争

<概要>

江戸城を占領し彰義隊を破った新政府軍は、奥羽越列藩同盟に加わり、抵抗を続ける東北諸藩を討つための遠征軍を送り出した。慶応4年(1868年)の7月から8月にかけて、新政府軍と東北諸藩の間で戦いが繰り広げられ、諸藩は次々と敗れていった。東北諸藩の中で頑強に抵抗した藩の一つが、松平容保(34歳)の会津藩であった。
少し前まで、会津藩は京都守護職として新選組などの組織を傘下に置き、天皇と京都を守るという大義名分を得ていたが、孝明天皇が崩御した後に薩長の討幕派が朝廷権力を握ったことで情勢は一変した。これまで天皇の絶大な信頼を受けていた会津藩は、4月1日、朝廷が容保討伐令を発したことで逆賊の烙印を押されてしまったのである。
8月21日、新政府軍は会津藩に対して総攻撃を開始した。新政府軍の兵力はおよそ3万にも及んだが、会津藩は4000ほどであったという。22日には、会津藩の16,7歳の少年から成る白虎隊が出陣したが、23日には会津若松城は完全に包囲され、白虎隊は飯盛山にて自刃。城下に住む藩士達の母や妻、娘などの女性は集団自決を遂げた。
会津藩は籠城して徹底抗戦したが、9月22日、ついに会津若松城は陥落した。
この一連の戦いは、会津戦争、あるいは会津の戦いなどと呼ばれている。


白虎隊について

会津の戦いで特に有名なのが、16、17歳の少年で編成された白虎隊の自刃の話である。会津藩の軍団はフランス流に従って、年齢によって部隊が編成されていた。部隊の名前には、中国の故事で「方位の守護神」とされていた、玄武(げんぶ:北)、青龍(せいりゅう:東)、朱雀(すざく:南)、白虎(びゃっこ:西)の名前がつけられた。玄武隊は50歳以上、青龍隊は36〜49歳、朱雀隊は18〜35歳の藩士から成り、白虎隊は最年少で16、17歳の少年達であった。各隊はさらに士中(しちゅう)、寄合(よりあい)、足軽の身分によって分けられていた。白虎隊は全員で340名ほどおり、「士中一番隊」「士中二番隊」「寄合一番隊」「寄合二番隊」「足軽隊」の5隊に分かれていた。飯盛山で自刃して果てたのは、「士中二番隊」所属の20名(人数には異説あり)であった。

松平容保のその後

降伏後、会津藩の領地は没収され、藩主の容保は鳥取藩に身柄を預けられ5年間の幽閉生活を余儀なくされた。
その後は政界に戻ることはなく、日光東照宮の宮司として余生を過ごした。

<参考>
・日本全史(講談社)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・幕末維新 新選組と新生日本の礎となった時代を読む(世界文化社)

幕末年表へ戻る
侍庵トップページへ戻る