朝倉氏の滅亡

越前の戦国大名・朝倉家は、日の出の勢いの織田信長(40歳)包囲網の一角として、北近江の浅井家と連携して対信長戦線を張っていたが、姉川の戦いで敗れた後、その勢力は衰微していった。
1573年(天正元年)、信長包囲網の首領であった15代将軍・足利義昭が京を追われたことをきっかけに、形勢は織田家に傾き始めた。近江山本山(やまもとやま:滋賀県湖北町)城主の阿閉貞征あつじ さだゆき)が織田家に寝返ったことにより、小谷城に本拠を置く浅井家が孤立する形になったのである。
8月8日夜、信長は岐阜城を出発し、この報を受けた朝倉家の当主・朝倉義景(41歳)は、浅井家救援のため、10日に2万の軍を率いて一乗谷を出陣した。朝倉軍は木之本田部山(田上山?)に陣を敷き、織田軍と交戦したが敗れ、13日には敗走状態となった。さらに織田軍による追撃を受けたために被害が拡大し、15日夕方に義景が一乗谷に帰還した時、彼に従うのはほんの数騎であったという。
義景は一乗谷を枕に討死しようとするが、一族の朝倉景鏡あさくら かげあきら)は延暦寺系の平泉(へいせん)寺(福井県勝山市)を頼るべきと説いた。しかし、平泉寺は織田家に加担することを宣言したばかりか、一乗谷を襲撃して火を放ったのである。落ち延びた義景は山田荘賢松(けんしょう)寺(福井県大野市)に逃れるが、朝倉景鏡までもが織田家に寝返って賢松寺を攻撃した。義景は「七顛八倒四十年中無他無自四大本空」の辞世を残して切腹して果てた。こうして戦国大名・朝倉家は滅び、本拠地の一乗谷は3日間にわたって燃え続け廃墟となった。

現在の一乗谷の様子。東西を山に囲まれ、南北に伸びた谷間になっている。発掘調査が進み、一部の区画では当時の街並みが復元されている他、朝倉家の居館跡では庭園も整備されている。

(2004年4月10日撮影)

<参考>
・日本全史(講談社)

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