壇ノ浦の戦い

概要

元暦2年(1185年)3月24日。
関門海峡の壇ノ浦にて、源義経(27歳)率いる源氏軍と平宗盛(39歳)らが率いる平氏軍による最後の水上戦が繰り広げられた。
義経は伊予の河野水軍や紀伊の熊野水軍などを味方につけ、源平の争いの趨勢はほぼ決まったかのようであったが、平氏は長門の彦島に本拠地を置き、最後の決戦に臨んだ。開戦当初は潮の流れが平氏側から源氏側に流れていたため、戦況は平氏に有利に展開していった。しかし、午後になると潮の流れが逆になり、源氏側から平氏側に流れ始めた。このために形勢は逆転し、ついに源氏側の勝利で幕を閉じることになる。
敗戦を悟った宗盛の弟・平知盛たいらのとももり:35歳)は、安徳天皇(8歳)が乗る御座舟に飛び乗り、最期の時が来たことを告げた。天皇は二位尼にいのあま時子(清盛の妻)に抱かれて海中に身を投げた。平氏の中でも豪勇を誇った平教経(26歳)は、義経を討つべく奮戦したがついに力尽き、源氏の武者2人を道連れに入水した。全てを見届けた知盛も入水し、戦いは源氏の勝利に終わった。
源氏側は天皇と神器の捜索に乗り出し、天皇の母である建礼門院けんれいもんいん:31歳)は救助された。しかし、三種の神器の一つである宝剣はついに見つからなかった。この戦いで平氏は完全敗北し、歴史の表舞台から姿を消すことになる。


現在の壇ノ浦沿岸「みもすそ公園」の写真(撮影:2004年5月2日)


その後

平氏惣領の平宗盛は海に飛び込むが死にきれず、泳いでいるところを源氏に捕らえられた。その後、義経に護送されて鎌倉へ送られ、助命嘆願するが受け入れられず、6月21日、近江の篠原で斬られた。
一の谷で捕らえられていた平重衡(29歳)は、東大寺を焼いたという理由で、東大寺に引き渡され、6月23日に木津河畔で斬られた。
平維盛の子の六代ろくだい)は、頼朝と親しかった僧・文覚もんがく)のとりなしで助命され、文覚の弟子となって修行に励んでいたが、後に頼朝の命によって斬られることになる。

栄華を極めた平氏はこうして滅んだ。のちに、平家の伝説は下級貴族の手によってまとめられていき、「平家物語」となって琵琶法師に語り継がれることになる。
また、各地の離島や山間部では平氏の落人伝説が残り、現在に至ってもそれらの伝説は大小合わせて100を越えるといわれている。

二位尼辞世の歌

今そ知る みもすそ川の 御ながれ 波の下にも みやこありとは

壇ノ浦の本州側沿岸公園に、「安徳帝入水之処」と刻まれた四角い石碑が立っており、その石碑にはこの歌が刻まれておりました。
石碑の最後には「長○(←読めなかったです)本平家物語」とあるので、そこからとってきたもののようです。
この歌が本当に二位尼の辞世の歌として詠まれたのかどうかはわかりませんが、その後の彼女の行動(安徳帝を抱いて海に身を投げる)を暗示するのに十分な歌だと思います。

<参考>
・日本全史(講談社)

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