平重衡南都焼き討ち

概要

治承4年(1180年)12月28日。
平重衡たいらのしげひら:清盛の子。24歳)、平通盛たいらのみちもり:清盛の甥。教盛の子。)率いる平家軍が、東大寺・興福寺の僧兵と戦ってこれを破り、その兵火で東大寺・興福寺が焼け落ちた。
東大寺・興福寺は挙兵に失敗した以仁王を支持して平家と敵対していた。この年、清盛が福原遷都を強行したのも、これらの寺社勢力から逃れるためだった、と言われている。しかし、強引な福原遷都の評判はすこぶる悪く、11月にはやむを得ず京都に戻っていた。京都に戻った清盛は南都を攻めると盛んに吹聴し、南都の僧兵らも鞠を清盛の首に見立てて踏んだり蹴ったりして挑発していたという。
この日、南都勢は奈良坂、般若坂に盾と逆茂木を並べて防塞を構築していたが、平家の騎馬武者が僧兵もろともこれを蹴散らし、戦いは平家の勝利で幕を閉じた。東大寺や興福寺が焼け落ちたのは、重衡が夜になって周囲を明るくするために、民家に放った火が瞬く間に延焼したため、といわれている。

東大寺南大門。この門も兵火によって焼け落ちた。
(2004年1月31日撮影)

<参考>
・日本全史(講談社)
・新詳日本史図説(浜島書店)

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