元弘の変(元弘の乱)

概要

 一度は失敗した討幕計画であったが、後醍醐天皇(44歳)の討幕の志は消えることはなかった。再度、近臣や僧と語らって仲間を引きいれ、2度目の討幕計画を立てていたのである。しかし、再び近臣から密告者が現れたことで計画は露見。近臣らは捕らえられ、天皇自身は御所を脱出してわずかの兵とともに笠置山に立て籠もった。1331年(元弘元年)8月24、25日のことである。幕府はこれを討つべく、大軍を派遣して笠置山を包囲して攻撃を加えたが、天皇方は地の利を活かして巧みに守り、幕府軍を寄せ付けなかった。この間に、楠木正成くすのき まさしげ:38歳?)が呼応して赤坂城にて挙兵。これに伴って各地の悪党の動きも活発化し、世の中は大きく動き始めた。笠置山の戦いは攻防約1ヶ月、暴風雨の夜に幕府軍による奇襲攻撃が成功し、笠置山は陥落。落ち延びた後醍醐天皇も翌日発見されて捕らえられた。楠木正成の赤坂城も奮戦したが、10月21日についに陥落。正成は行方をくらました。

その後の展開

 捕らえられた後醍醐天皇承久の乱の先例にならって隠岐へと流された。各地の反幕府勢力も鎮静化し、事変は一旦終息したかに見えたが、討幕の炎が燃え上がるのはこれからであった。


もうちょっと詳しく

1.密告された討幕計画
 2度目の討幕計画に関わったのは、天皇を筆頭に日野俊基吉田定房よしだ さだふさ:58歳)、僧の文観円観らであった。彼らは、幕府に反抗的な悪党に働きかけたり、幕府調伏の祈祷を行うなどしていたが、この年4月、吉田定房の密告により討幕計画が露見してしまった。吉田はかねてから無謀な計画には賛成していなかったという。密告に及んだ理由として、計画を途中で頓挫させ、日野俊基にその責任を負わせることで、天皇を守ろうとしたため、という説があげられているが、真相はよくわかっていないらしい。とにかく、吉田の密告によって討幕計画は幕府の耳に入るところとなった。幕府は5月に長崎高貞らを京都に派遣し、まずは日野俊基文観円観らを捕らえ、6月に彼らを鎌倉に護送した。やがて幕府の追及の手は天皇自身にも及び、鎌倉から3000余騎が上洛した。
 8月24日の夜、後醍醐天皇は3種の神器を携え、大納言師賢ら数名を従えて女房車に乗って御所を脱出しようとした。門前で六波羅の兵の検問にあったが、中宮祥子が父を訪問しに行くところだと答えてうまくかわした。三条河原で源具行みなもとのともゆき)、藤原公能ふじわらのきみよし)、千種忠顕ちぐさ ただあき)らと合流し、追っ手を撹乱するために二手に分かれた。天皇は粗末な輿に乗り換え、奈良参詣に行く女房とそのお供衆を装って東大寺に向かい、大納言師賢は天皇に変装して比叡山に向かったのである。夜明け頃、東大寺南院に着いた天皇の一行は、僧の聖尋せいじん)の先導で鷲峰山(じゅぶさん)をへて笠置山に入り、山頂の笠置寺に本陣を置いたのである。
 二手に分かれた作戦が功を奏したのか、六波羅の幕府軍は27日に比叡山を攻撃している。比叡山に身を寄せていた天皇の皇子、尊雲法親王(後の護良親王)と尊澄法親王は脱出して笠置山に逃れた。

2.笠置山の戦い
 六波羅軍はおよそ75000の大軍を率いて、天皇が立て籠もる笠置山を包囲した。守る天皇方の兵力は武士・僧兵なども全部含めて2500ほどであったという。9月2日、幕府軍による攻撃が始まった。天皇方の武者で三河国の住人・足助重範あすけ しげのり:40歳)という弓の達人がいた。彼は一の木戸に陣取り、強弓をもって押し寄せる幕府軍の兵を撃ち落していった。幕府軍の将・荒尾九郎・弥二郎兄弟も彼の弓矢の犠牲者となったという。夕刻になると、天皇方で般若寺の本性房という怪力の僧が、巨大な石を次々と落とし、幕府軍兵士の命と進路を奪っていったという。笠置山のすぐ側には木津川が流れており、険しい山道はまさに天然の要害であったという。兵数では30分の1ほどの天皇方は地の利を最大限に活かして、幕府軍と戦っていた。
 戦闘開始からしばらくした9月28日の夜、戦局に転機が訪れた。この夜はひどい暴風雨であったという。この暴風雨の中、幕府軍の中からおよそ50名の決死隊が笠置山の北側の石壁をよじ登ることに成功し、天皇方の背後から夜襲をかけた。この奇襲攻撃は大成功をおさめ、天皇方の軍勢は大混乱に陥いり、敗走した。この戦火で笠置寺は全山が焼失。足助重範は幕府軍に捕らえられ、何とか逃げ延びた後醍醐天皇も、翌29日に山中を放浪しているところを山城国の住人・深栖三郎みす さぶろう)の手によって捕らえられた。こうして、笠置山の戦いは幕府軍の勝利で幕を閉じたのである。

3.乱の終息
 笠置山で戦闘が続いている頃、9月11日に楠木正成が赤坂城で挙兵に及んだ。これに呼応する形で、備後でも桜山茲俊が挙兵に及んだ。しかし、笠置陥落の後は奮わなくなり、10月21日は赤坂城が陥落し、楠木正成は行方をくらました。年があけた1月21日、桜山茲俊が備中吉備神社に火を放って自刃し、戦いは幕を閉じた。後は、幕府による戦後処理である。
 まず後醍醐天皇承久の乱の先例にならって3月7日に隠岐へ配流となり、翌日には天皇の皇子の尊良法親王は土佐に、尊澄法親王は讃岐に配流となった。また、笠置陥落の折に捕らえられた足助重範は5月3日に六条河原で斬首。6月2日に日野資朝が配流先で斬首。日野俊基は6月3日に鎌倉の葛原岡(くずはらがおか)で斬首となった。

<関連史跡>
笠置山(寺) (京都府相楽郡笠置町)
・赤坂城跡 (大阪府南河内郡千早赤阪村)
・葛原岡 (神奈川県:日野俊基を祀る神社があるそうです)

<参考>
・日本全史(講談社)
・笠置町案内

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