平治の乱

概要

平治元年(1159年)12月9日、源義朝(37歳)と後白河上皇(33歳)の近臣の藤原信頼ふじわらののぶより:27歳)らが、上皇が住む三条殿を急襲し、内裏に幽閉するという事件が起きた。さらに彼らは、当時随一の権勢を誇った院近臣・藤原通憲ふじわらのみちのり:54歳)(信西:しんぜい)を討ち、その首を晒した。信西は、上皇の側近として権力を振るっており、信頼の目の上のたんこぶであったという。また、信西平清盛(42歳)とも親しく、信西の権力の影響で、義朝をさしおいて清盛への恩賞を優遇するなど、義朝と信頼にとっては大きな共通の政敵であった。彼らは信西打倒のために結束し、清盛が熊野詣に出かけて京都を留守にしたことを機に、事を起こしたのである。
このクーデターは一時は成功したかにみえたが、急を聞いて帰京した清盛が策を用いて幽閉されていた上皇と二条天皇を奪回し、さらに六条河原の戦いで義朝と信頼の軍を打ち破ったために、失敗に終わった。義朝と信頼は間もなく殺され、朝廷における源氏勢力の力は一気に衰えた。この乱は平治の乱と呼ばれ、勝利した清盛はさらに昇進し、やがては平氏政権の樹立に至るのである。


乱の原因と経過

この乱の原因は、3年前の保元の乱にまで遡る。平清盛は、戦後の恩賞として播磨国を与えられ4ヶ国を知行国として獲得し、さらに大宰大弐(だざいのだいに)の官位を与えられらた。さらに、信西とも親しかったために、その後さらにもう1ヶ国を知行国として与えられ、着実にその力を蓄えていった。一方の源義朝は、父や弟など多くの犠牲を払ったにしては恩賞は少なく、官位が左馬頭(さまのかみ)に上がったのみであった。義朝から見れば、信西が清盛と結びついていることが恩賞が平氏に偏る原因と見えたようだ。同様に、藤原信頼も反信西という点では義朝と一致していた。信頼も信西も後白河上皇の近臣であったが、信頼は権勢を誇る信西を嫌っていたのである。
さらに、反信西勢力はもう一つあった。朝廷策謀の中枢と評価されている美福門院の一派である。美福門院と信西は政権を巡って談判を繰り返しており、後白河の退位と二条の即位が決定された。しかしその後、後白河の院近臣として権勢を振るう信西と、天皇につく美福門院一派の関係はあまりうまくいっていなかったようだ。
これらの反信西勢力が共同して事を起こしたのが平治の乱であったと考えられる。源義朝藤原信頼に二条天皇の側近である藤原経宗ふじわらのつねむね)と藤原惟方ふじわらのこれかた)が加わり、12月9日の三条殿の襲撃に至った。
この襲撃で後白河とその姉・上西門院(じょうせいもんいん)統子が大内裏の一本御書所(いっぽんごしょどころ)に幽閉された。つまり、反信西側は上皇と天皇を擁したことになる。信西は京都を脱出したが、13日に宇治田原で首を斬られた。その首は大路を引き回されたうえに、17日には検非違使庁の門の前に懸けられていたという。
(信西の死については、「愚管抄」では自害とされていることに対し、「平治物語」では殺害されたとされている。)
信西の首が検非違使庁の門前に晒された17日に、熊野詣に出かけた途中で事件を知った清盛が京都に帰ってきた。しかし、清盛はすぐに反撃にうつったのではない。六波羅の自邸に戻ると、義朝に対して名簿を差し出して降伏の意を示したのである。これが清盛の策であった。義朝らが安心している裏で、清盛は藤原経宗らを説得して味方につけたのである。この狙いは、上皇と天皇の奪回にあった。義朝らが上皇と天皇を擁している限り、正統性は義朝らに存在するからである。25日、御所北門から女房車が出て行った。見張りの武士は怪しんだが、女性と見てそのまま行かせた。しかし、車の中に乗っていたのは女装した二条天皇だったのである。車は、そのまま六波羅の清盛の屋敷に入った。さらに、後白河上皇も脱出して仁和寺に逃れた。清盛の策は見事に成功したのである。26日、清盛の策略を知った義朝と信頼は軍勢を率いて六波羅に押しかけた。清盛もこれを迎え討ち、六条河原で激しい戦いを繰り広げた。この戦いで義朝と信頼は敗れ、清盛の勝利に終わったのである。

乱の結果と影響

敗れた義朝は都を落ち延び、東国へ向かっていたが、年があけた1160年1月4日、尾張の内海(うつみ)で家人の長田忠致おさだ ただむね)の裏切りにあって風呂に入っているところを斬殺された。義朝の長男で豪勇を謳われた源義平みなもとのよしひら:19歳)は落ち延び、その後も都の奪回を狙って潜伏していた。しかし、これも間もなく捕らえられて斬首となる。次男の源朝長みなもとのともなが)は父と共に落ち延びる途中で自害して果て、三男の源頼朝みなもとのよりとも:13歳)は雪の関が原で父とはぐれてしまい、2月9日に平頼盛たいらのよりもり:清盛の弟)の従者・平宗清たいらのむねきよ)に発見されて捕らえられた。藤原信頼は、上皇にすがろうとして仁和寺に走ったが、許されずに捕らえられて六条河原で斬首となった。
一方、勝利した清盛は翌年に正三位参議に昇進し、出世の階段を駆け上ることになる。こうして源氏勢力は中央から衰退した。摂津源氏の流れをくむ源頼政(56歳)は清盛に味方したために勢力を保持してはいるが、時代は平氏の全盛期を迎えることになる。

<参考>
・日本全史(講談社)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・NHK「その時歴史が動いた 第165回 平清盛 早すぎた革新」

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