保元元年(1156年)7月11日、兄の崇徳上皇(38歳)と弟の後白河天皇(30歳)の間で家督争いに端を発する武力衝突が、京都で発生した。両者の対立には摂関家の内紛が絡んでおり、弟の左大臣藤原頼長(ふじわらのよりなが:37歳)は上皇方に、兄の関白藤原忠通(ふじわらのただみち:60歳)は天皇方につき、兄弟による骨肉の争いとなった。この戦いで活躍したのが、源氏と平氏の二大勢力に代表される新興勢力の武士であった。平氏は平清盛(39歳)とその息子・基盛が天皇方に、清盛の叔父である平忠正(たいらのただまさ)は上皇方に与した。源氏では、棟梁の源為義(みなもとのためよし:61歳)と、その息子の頼賢、頼仲、為朝(18歳)、為仲の4人は上皇方についたが、嫡男の源義朝(みなもとのよしとも:34歳)と為義の祖父である源義家の孫の足利義康(あしかが よしやす)、源氏一族の源頼政(みなもとのよりまさ:53歳)らは天皇方についた。こうして、天皇家、摂関家、源氏と平氏の一族が敵味方に別れて争う事態になったのである。
両者は前日10日から兵を集めだした。高松殿に結集した600余騎の天皇方は、11日未明に3隊に分かれて鴨川を渡った。平清盛を大将とする300余騎が二条大路を進み、源義朝を大将とする200余騎は大炊御門(おおいみかど)大路を進み、足利義康を大将とする100余騎は近衛大路を進んで、上皇方が集まる前斎院(さきのさいいん)統子内親王の御所に向かい、夜襲を行った。上皇方は源為朝らが奮戦したが、勢いは天皇方にあり、崇徳上皇と藤原頼長は逃亡。天皇方はさらに勢いに乗り、源為義の住居も焼き払った。
こうして、保元の乱よ呼ばれるこの戦いは、天皇方の勝利に終わったのである。
保元の乱の原因は上記の通り、天皇家の内紛と摂関家の内紛の絡みに集約される。
まず、天皇家についてみてみよう。当時は鳥羽法皇(54歳)が政権を握る、いわゆる院政の時代であった。鳥羽法皇の中宮が待賢門院(たいけんもんいん:名前は璋子しょうし)で、二人の間には二人の男子が誕生した。それが、崇徳上皇と後白河天皇である。ところが、待賢門院は男女関係の噂には事欠かない女性であり、崇徳は鳥羽の子供ではなく、鳥羽の祖父である白河法皇の子である、という噂が半ば信じられていたのである。鳥羽法皇は崇徳天皇のことを「叔父子」と呼び、なんとも言えない嫌悪感を感じていたという。事の真偽を定めることはできないが、崇徳上皇は白河法皇の子だ、という話は裏の常識として認知されていた、というのは事実である。この父子の確執を語るエピソードはいくつも残っている。
乱の直前の7月2日、鳥羽法皇は鳥羽殿安楽寿院にて息をひきとるが、父の危篤を聞いて駆けつけた崇徳上皇は面会できずに門前払いされたという。崇徳上皇はその血縁関係の疑惑によって、天皇家の中では浮き上がった存在であった。当然、崇徳上皇の弟である後白河天皇との間柄もうまくいかなかった。
摂関家の内紛も、その対立の構造は同類のものであった。対立する兄の関白忠通と弟の左大臣頼長の父は、前摂政の藤原忠実(ふじわらのただざね:79歳)であった。忠実は長子の忠通よりも、学者肌の頼長を偏愛していたのである。ついには、藤原家の氏長者の資格を頼長に移した。武士の世界で言えば、忠通は廃嫡された、といったところだろうか。
このように、乱の原因は天皇家と摂関家の親兄弟の不和が原因だったと考えられている。
乱の結果、崇徳上皇は捕らえられ、23日に讃岐に配流となった。
藤原頼長はこの時の負傷がもとで間もなく死去し
父の藤原忠実は知足院に幽閉され、頼長の4人の子は流罪となった。
武家では、平忠正と源為義は斬首となり、源為朝は伊豆大島に流罪となった(ただし、この説には確証はない。)。
為朝といえば、源氏の中でも最も武勇の誉れ高き武将であり、この保元の乱でも大活躍している。この時代の武士の標準武器は「弓」であり、為朝は弓の名手として有名である。為朝の弓は「五人張り(弓の弦を張るのに、男が5人がかりになるほど強い、という意味)」と言われる強弓であり、その弓から発射された矢は、武士の鎧兜を貫通するほどだったという。為朝の強弓の被害者となる天皇方は数知れないほどであったが、大勢を覆すことはできなかった。
京都は院政期に都市として発達しており、当時は喧嘩狼藉や僧兵の強訴、検非違使の捕り物劇などは日常茶飯事であったという。しかし、これまで東夷(あずまえびす)と蔑視されてきた武士が、都で本物の合戦を繰り広げたのは異例の事件であった。日本では古来より貴族の政争に武力が用いられるのは希なことであったが、保元の乱以後、武士の存在は政治に欠かせないものとなっていく。「愚管抄(ぐかんしょう:詳しくはこちらをクリック)」では
保元元年七月二日、鳥羽院ウセサセ給ヒテ後、日本国ノ乱逆(らんげき)ト云コトハヲコリテ後、ムサ(武者)ノ世ニナリニケルナリ。
と、記述されている。また、時代は下って1867年、徳川慶喜の大政奉還の上表文にも、武家の隆盛は保元・平治の乱から、という内容の記述がされている。つまり、武士が政治の中央に登場したのは、この保元の乱から、と先人達も認識していたことがうかがえる。
<参考>
・日本全史(講談社)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・日本史史料集(駿台文庫)
・合戦地図で読む源平争乱(青春出版社)
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