大政奉還

<概要>

1867年(慶応3年)10月14日、15代将軍の徳川慶喜(31歳)が朝廷に大政奉還の上奏を行った。10月上旬、土佐藩から大政奉還建白書を受け取った慶喜はこれを容れ、12日に京都二条城に老中らを召集して大政奉還の意を伝え、13日には在京諸藩の代表を同じく二条城の大広間に召集して同様の決意を述べた。慶喜の決意に対する反対の声は上がらなかったという。朝廷は翌15日にこれを受理し、1603年に徳川家康が征夷大将軍となって開かれた徳川幕府は、形式上その幕を降ろすことになったのである。

その後の展開

10月24日、慶喜は将軍職の辞退も奏上したが、26日、朝廷はしばらく政務を慶喜に委任するという決定を下した。長い間武家政権が日本を支配してきたため、政権を返されても朝廷には行政機構を備えていなかったのである。
一方、討幕を画策していた薩長側は公家の岩倉具視(43歳)と協力して準備をしていたが、大政奉還が奏上された同じ14日に討幕の密勅が下った。

二の丸御殿
二条城二の丸御殿の入口。
ここの大広間にて徳川慶喜は大政奉還を発表した。
(2004年1月8日撮影)

慶喜の在任期間

最後の将軍となった徳川慶喜が15代将軍に就任したのは1866年(慶応2年)12月5日。在任期間は1866〜67年と表記されるが、実質は1年も在任していなかったのである。短い間であったが、慶喜は幕府建て直しのために幕政改革に乗り出し、フランス公使・ロッシュの支援を受けて軍の近代化を図ったが、幕府を再興させることはできなかった。
この年の7月、三河吉田(現在の愛知県豊橋市)で伊勢神宮のお札が降ってきたということで、民衆が「ええじゃないか」と叫びながら踊り狂うという現象が発生し、東海道、山陽道、近畿、関東甲信地方に爆発的に広まった。なんとも不思議な現象だが、この「ええじゃないか」は、幕府の崩壊による解放感と世直しを求める民衆運動の表れ、という見方もある。

原案は坂本竜馬から

大政奉還の原案は、土佐藩海援隊隊長の坂本竜馬(33歳)が土佐藩参政の後藤象二郎(30歳)に示した「船中八策」であった。後藤は7月8日に土佐に戻り、主君の山内容堂(41歳)に謁見し、大政奉還案を献言したのである。山内容堂は藩を挙げて薩長と連合し、討幕側に加担することができずにいた。その理由は、土佐山内家は関が原の戦い後に、徳川家から土佐を与えられたという歴史的背景によるものであった。薩摩藩、長州藩のように関が原で敗れ、徳川家に恨みこそあれ、恩義など感じていない藩とは歴史的背景が異なったのである。事態は抜き差しならぬほど切迫していたため、山内容堂は後藤の案をすぐに採用したのである。
後藤は武力討幕を進める薩摩藩に待ったをかけてから、まずは幕臣の永井尚志と会見し、大政奉還を提案した。続いて、福岡孝弟ふくおか たかちか)、寺村左膳てらむら さぜん)らとの連署で大政奉還建白書を幕府老中の板倉伊賀守いたくら いがのかみ)に提出した。

徳川家の温存計画

大政奉還は幕府体制の終焉を告げるものであったが、徳川家の政治生命断絶を告げるものではなかった。
慶喜の側近、西周にし あまね)の「議題草案」によると、天皇を頂点に頂き、諸藩大名や藩士らによる連合政権を作り上げ、徳川将軍がその主導権を握る、という構想であったらしい。つまり、将軍と幕府という政体を捨てて、新政府のもとで徳川政権を樹立させようという案である。
具体的には、行政機関となる政府の元首に将軍が就任し、地方には事務府を置いて大名をそれらの宰相とする、とある。これは、名前が変わるだけで形式上は幕藩体制とたいして変わりはない。また、立法機関として二院制の議院を置き、上院議員は大名が就き、将軍はその総頭になる。下院は諸藩藩士が一名ずつ議員となる。将軍は上院で「三当一」という権利を持ち、下院の解散権も持つ他、天皇は法律を裁可はするが拒否権はない、というものであった。結局は、行政・立法の両方で将軍は強い権力を保持することになるのである。
慶喜と西の構想には多少の相違点があったと言われているが、大政奉還の裏には幕府側の政権保持が意図されていたのは間違いないだろう。

大政奉還上表文

臣慶喜謹テ皇国時運ノ沿革ヲ考候ニ、昔王綱紐ヲ解キ、相家権ヲ執リ、保平之乱政権武門ニ移テヨリ、祖宗ニ至リ更ニ寵眷ヲ蒙リ、二百余年子孫相受ク。臣其職奉スト雖モ、政形当ヲ失フコト少カラス。今日ノ形勢ニ至リ候モ、畢竟薄徳ノ致ス所、慙懼ニ堪ヘス候。況ヤ当今、外国ノ交際日ニ盛ナルニヨリ、愈朝権一途ニ出申サス候テハ、綱紀立チ難ク候間、従来ノ旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷ニ帰シ奉リ、広ク天下ノ公議ヲ尽シ、聖断ヲ仰キ、同心協力、共ニ皇国ヲ保護仕候得ハ、必ス海外万国ト並立ツヘク候。臣慶喜国家ニ尽ス所是ニ過キスト存シ奉リ候。去リ乍ラ猶見込ノ儀モ之有リ候得ハ、申シ聞クヘキ旨、諸侯江相達シ置候。之ニ依テ此段謹テ奏聞仕候。以上。

出典「中山忠能履歴資料」(文部省編「維新史」所収)

<現代語訳>
朝廷の臣下であるこの慶喜、謹んで皇国の時運の沿革を考えましたところ、昔天皇による支配がゆるみ、藤原氏が権力を握り(「相家」とは大臣家のこと。ここでは藤原氏を指すと考えられる。)、保元平治の乱(「保平の乱」とは保元の乱と平治の乱のこと)で政権が武門の家に移ってから、始祖(徳川家康)以来、御寵愛をいただいき、その後200年余りその子孫もいただいてきました。私は将軍職を奉じてきましたが、政治と刑罰において当を得なかったことは少なくありません。こんにちの形勢になりましたのも、結局は私に徳が足りない結果であり、恥じ恐れております。ましてや当今、外国との交流が日に日に盛んになり、朝廷の権威・権力が一つにならなければ綱紀を保つことはできない時、従来の旧習を改めて政権を朝廷にお返し申し上げ、広く公衆の評議を尽くして聖断(天皇の決断)を仰ぎ、心を同じくして力を合わせ共に皇国をお守りいたせば、必ず諸外国と並び立つことでしょう。この慶喜、国家に尽くすにはこれが一番だと心得ております。さりながら、まだどうするかについての意見があれば、申し聞く旨は諸大名に伝えておきました。これにて、此度の件を御奏上いたします。

(上記訳文などに間違いなど発見しましたら、ご連絡いただければ幸いです。)

<参考書>
・高等学校新日本史B(桐原書店)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・日本全史(講談社)
・幕末維新 新選組と新生日本の礎となった時代を読む(世界文化社)
・日本史史料集(駿台文庫)

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