豊国大明神

 天下人・秀吉の死は、朝鮮出陣中の日本軍の士気に響くことが心配されたために、しばらく秘密にされました。そして慶長の役の戦後処理も一段落ついた慶長4年(1599年)1月5日、秀吉の死が公表されました。前年8月18日に死去した秀吉の亡骸は、荼毘に付されることもなく(火葬されることもなく)、伏見城に安置されていたそうです。秀吉の遺命により、幼い一人息子の豊臣秀頼(7歳)は1月10日、伏見城から大坂城に移りました。2月2日には、石田三成(40歳)ら五奉行が剃髪して秀吉の喪に服しています。
 秀吉の霊廟は、京都の東山山麓、阿弥陀ヶ峰に造営されました。4月13日に秀吉の遺体は廟所に移されます。そして、慶長4年4月17日後陽成天皇(29歳)により、秀吉は「豊国大明神ほうこくだいみょうじん)」の神号を授けられました。「神号」とは、「神としての名前」。つまり、秀吉は死して「神」となった(列せられた)わけです。歴史上、天下に鳴り響いた英雄は何人かいますが、死して朝廷から神に列せられた人物は、おそらく秀吉が最初でしょう(※後に家康も、死して神に列せられています。)
 翌18日には正遷宮(しょうせんぐう)という儀式が行われ、徳川家康(58歳)、毛利輝元(49歳)ら五大老はじめ諸大名が参列した他、京都の町衆も数知れず集まったと言われています。秀吉が京都町衆に支持されていたことがうかがえる話ですね。19日、朝廷より正一位の神階もおくられ、秀吉は鎮護の神として祀られることになったのでありました。これが、豊国社の始まりです。

 ちなみに、豊国社は大坂の陣で豊臣家が滅んだ後、家康の命によりほぼすべて破却されてしまいました。ただ、琵琶湖の竹生島にある宝厳寺(ほうごんじ)の唐門は、秀頼が片桐且元に命じて何処かから移してきたものだと言われています。これが、豊国廟を移築したものなのではないか、と考えられているそうです。

「明神」とは、神様の尊称。神様の中でも、ご利益の豊かな神様のことです。現在でも、秀吉を出世の神様として祀っている場所がありますね。


<参考>
・日本全史(講談社)
・詳解国語辞典(旺文社)

<関連史跡>
「豊国神社」(京都府京都市東山区)

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