豊国社破却

 大坂の陣で豊臣家は名実共に滅び、反徳川の浪人衆もほぼ壊滅した後、徳川家康(74歳)らは以前から計画していたかのように、次々と幕府体制地盤固めのための法令を出していきました。その中で、豊臣時代の全盛期を思わせる壮麗豪華な「豊国社」についても処分が決められます。
 慶長20年(1615年)7月9日。家康は二条城に側近僧侶の天海(80歳)、京都所司代の板倉勝重いたくら かつしげ:71歳)を召して、豊国社の破却を命じました。依然として秀吉贔屓だった京都町衆らに、豊臣家の時代が終わったことを知らしめる、という政治的な目的がうかがえます。時代の変革期には、旧時代を象徴する建物が破壊される、という現象は諸外国の歴史にもよく見られますね。家康も、豊国社に関しては冷徹な態度で臨みました。その内容は・・・
・豊国社の社頭(※注)はことごとく破壊。
・御神体は、方広寺大仏殿の回廊裏に移動。
・方広寺別当は妙法院門跡を住職としてあて、寺領1000石を寄進する。
というものだったそうです。
これはつまり、「神」に列せられた秀吉が「仏」に降ろされた、ということです。後に、家康が「神」に列せられ神事を執り行ったことに対し、秀吉については、方広寺にて仏事を執り行うように、幕府が命令しています。家康を神として祀る以上、滅んだ豊臣家を思わせるようなような豊国社の存在は、幕府にとって邪魔だったのでしょう。
こうして、また一つ、時代が移り変わっていきました。

※注
「社頭」(しゃとう):神社の境内で、社殿の前あたり。 


<参考>
・日本全史(講談社)
・詳解国語辞典(旺文社)
・豊国神社説明書き

<関連史跡>
「豊国神社」(京都府京都市東山区)

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