厳島の戦い

概要

陶晴賢すえ はるかた:35歳)による大内家のクーデター以来、中国地方の情勢は大きな変化を続けてきた。事実上、大内家の実権を握った晴賢は、反対勢力の掃討を進め、新政権を確固としたものにしつつあった。そんな状況を一変させたのが、安芸の国人から身を起こした毛利元就もうり もとなり:59歳)であった。
晴賢は、石見津和野の吉見正頼よしみ まさより)を討つために、毛利家にも出兵を促したが、毛利家はこれを拒否。ばかりか、逆に吉見氏と呼応して晴賢に対抗しはじめたのである。陶家と絶縁した毛利家は、桜尾城(広島県廿日市町)を奪い、諸城を攻略して西進を始めた。そして、厳島を占拠して宮ノ尾(宮尾)城を築いたのである。一方、津和野城を攻撃中だった陶晴賢は毛利西進の報を聞き、吉見氏と急遽和睦。2万の兵を率いて安芸に乗り込んだ。
天文24年(1555年)9月21日、陶軍は厳島に上陸し、厳島神社付近の塔の岡に本陣を敷き、宮ノ尾城攻撃を開始した。しかし、宮ノ尾城は囮であった。9月30日夜、元就率いる3500人の毛利本隊は、援軍に来た村上水軍の協力を得て暴風雨の中を渡海し、厳島北東岸の包ヶ浦(鼓ヶ浦)に上陸した。翌日10月1日の早暁。元就率いる本隊は博奕尾(ばくちお)を越えて陶軍本陣に襲い掛かった。また、これに呼応して元就の3男・小早川隆景こばやかわ たかかげ)率いる別働隊は厳島神社正面から水軍を率いて攻撃を開始、さらにこれらに合わせて宮ノ尾城の兵も城外に出て、一斉攻撃に出た。陶晴賢は、島の西部に逃れたが、退路を完全に断たれていたため、自刃して果てた。
この戦いは厳島の戦いと呼ばれ、毛利氏が中国地方の覇者として君臨するきっかけとなった戦いとして認識されている。

観光名所としても有名な厳島神社。
海上の社殿は見事なものであり、世界文化遺産にも登録されている。
(2004年5月5日撮影)

その後の展開


<参考>
・日本全史(講談社)
・宮島案内板

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