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平将門の乱鎮圧

「平将門、新皇を自称」
坂東における争乱は、もはや地域紛争の域を越えて朝廷に対する反乱にまで発展した。同じ頃、瀬戸内海では藤原純友が海賊化して各地を襲撃しており、朝廷は東西に問題を抱えていたのである。
天慶3年(940年)1月19日。朝廷は、まず平将門を討つために、参議の藤原忠文を征東大将軍に任命した。征東軍は2月8日に京都を進発した。
しかし、事態は征東軍の到着前にけりがついてしまう。2月13日、押領使(おうりょうし:10世紀中ごろから全国に常置された、反乱鎮圧の令外官。各国の有力な豪族が任命された。)に任命された下野の豪族、藤原秀郷ふじわらのひでさと)と平貞盛が4000余りの兵を率いて将門の本拠地である石井営所(いわいのえいしょ:現在の茨城県岩井市)一帯を焼き討ちにした。
一方の将門軍は、春の農繁期で農民を帰郷させていたために、わずか400の兵しか集められずに苦戦を強いられた。2月14日、石井の北山に陣を張った将門は、追い風を利用して先頭に立って突撃を敢行。歩兵を蹴散らして潰走させるが、突如風向きが変わり、1本の矢が彼の体を貫いたという。享年38歳であったという。
こうして、平将門の乱は鎮圧された。4月25日、藤原秀郷は将門の首を掲げて京都に入り、朝廷に首を献上したという。この軍功で彼は従四位下下野守に任命され、東国の有力武士団として繁栄したという。


藤原秀郷(俵藤太)

藤原秀郷は「俵藤太(たわらのとうた)」とも呼ばれており、藤原北家の傍流の出であった。祖父の代に下野国に土着し、豪族として力を蓄えていたという。
「秀郷草紙」には、将門の首を掲げて入京する秀郷が描かれている。

将門記

平将門の乱を描いた軍記物語の先駆けとなった書物が「将門記しょうもんきまさかどき))」である。作者は不明。本書末尾に940年成立とあり、乱が鎮圧された年に書かれたことになる。しかし、実際にはもう少し時が経って11世紀初頭に成立した、という説もある。

<参考書>
・日本全史(講談社)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・日本史史料集(駿台文庫)
・新日本史B(桐原書店)

<関連史跡>
将門首塚(東京都千代田区)

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