松永久秀、三好三人衆を東大寺で破る

概要

永禄10年(1567年)10月10日。
三好家当主の三好義継みよし よしつぐ)を擁して多聞城に立て籠もっていた松永久秀まつなが ひさひで:58歳)が、東大寺に本営を置いた三好長逸みよし ながゆき)、三好政康みよし まさやす)、岩成友通いわなり ともみち)の三好三人衆を夜襲で破った。松永勢が放った火は東大寺大仏殿を炎上させ、大仏の頭部も焼け落ちてしまった。
三好家では、当主である三好義継の後見と主導権を巡って、松永久秀と三好三人衆の間で争奪戦が繰り広げられていた。前年は三人衆が久秀を破ったが、14代将軍になる見込みの足利義栄あしかが よしひで)に接近し始めた。これが原因で三好義継と三人衆が不和になったといわれている。この年の2月16日、義継は三人衆から離れて、久秀を頼って堺に入った。義継を擁した久秀は4月6日に信貴山城に入り、12日には多聞城に移動した。三人衆はこれを追って18日に東大寺大仏殿に本営を置いた。
以後、しばらくの間小競り合いが頻発し、7月23日には松永勢の一部が三人衆に内応し、東大寺戒壇院を焼くという事件が発生していた。そしてこの日の午後10時頃、松永勢の夜襲で三人衆は敗走。兵火は大仏殿を炎上させたのであった。

東大寺大仏殿の正面の門。この戦乱で
大仏はおよそ100年もの間、首なし野ざらし状態になってしまった。
(2004年1月31日撮影)

<参考>
・日本全史(講談社)

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