以仁王・源頼政の挙兵

概要

治承4年(1180年)5月26日。平家打倒の挙兵を計画していた以仁王もちひとおう:30歳)と源頼政みなもとのよりまさ:77歳)であったが、計画が露見したために都から落ち、僧兵の協力を得るために大和に向っていた。これを追う平家の平知盛たいらのとももり:30歳)、平重衡たいらのしげひら:25歳)、平維盛たいらのこれもり)らは、宇治平等院付近で一行に追い付き、宇治川を挟んで合戦が繰り広げられた。源氏に味方する僧兵らの活躍もあったが、多勢に無勢で源氏軍は敗れ、頼政の子・兼綱と仲綱の戦死が伝わると頼政も自害し、戦いは平家の勝利で終わった。以仁王は大和に向って逃走したが、途中で戦死した。

現在の宇治川。奥に見える橋が宇治橋。
(2003年12月23日撮影)

その後の展開

挙兵の旗頭であった以仁王は敗死したが、彼の令旨(りょうじ:皇子の命令のこと)は全国の源氏に伝えられ、源頼朝源義仲らの挙兵が相次ぐこととなった。


不遇の以仁王

以仁王後白河法皇の皇子であるが親王宣下も受けられない不遇の身であった。その理由は弟の高倉天皇平清盛の娘・徳子を中宮としていたためである。平家一門ではない以仁王は、後白河法皇が清盛によって幽閉された時も知行地を没収されていた。そのため、以仁王にとって平家の存在は自分の皇子としての栄達を妨げる障壁のようなものだっただろう。

挙兵までの流れ

4月9日の夜。源頼政は挙兵をうながすために以仁王を訪問した。平家に不満を持っている以仁王とはいえ、天下に君臨している平家を倒すことは容易にできることではなかった。そこで、平家を討つ旨を記した令旨を全国の源氏に発し、源氏の力で平家を倒そうとしたのである。
しかし、どこから漏れたのかは不明であるが、挙兵計画は平家側に悟られてしまい、以仁王源頼政は三井寺(みいでら:別名は園城寺(おんじょうじ))に逃れ、僧兵の応援を求めた。三井寺の僧兵は源氏方に加勢したが、平家を打倒できる戦力には達しなかったため、さらなる助勢を求めて大和の興福寺に逃れることになる。この途中、宇治で平家の軍勢に追いつかれて敗れ、挙兵は失敗に終わった。

源頼政 辞世の歌

埋もれ木の 花咲くことも なかりしに 身のなる果てぞ 哀れなりける
自分の人生を悔やんでも悔やみきれない無念な思いが伝わってきました。

<参考>
・高等学校新日本史B(桐原書店)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・日本全史(講談社)
・平等院説明書

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