永禄3年(1560年)5月12日。駿河、遠江、三河の3国を治め「海道一の弓取り」と恐れられた今川義元(いまがわ よしもと:42歳)が、およそ25000の兵を率いて駿府を出発。隣国尾張に攻め込んだ。17日には三河の池鯉鮒(ちりふ:現在の知立市)に着陣。主力部隊は三河・尾張の国境にさしかかった。翌18日、今川軍は軍議を開いた。今川勢の大高城に相対している織田勢の丸根・鷲津の両砦を攻撃するため、朝比奈泰能(あさひな やすよし)が鷲津砦を、松平元康(まつだいら もとやす:19歳)が丸根砦を攻撃することが決定された。義元本隊は沓掛城に待機することになる。
一方、尾張を治める織田信長(27歳)も清洲城にて軍議を開くが、織田軍の兵力はニ、三千ほどであり、今川軍にはとうてい及ばなかった。この夜、信長は何かを決意したかのように、日ごろ愛好している幸若舞の「敦盛」を舞ったという。
19日未明、今川軍による丸根・鷲津砦攻撃が始まった。午前10時頃には鷲津砦が陥落。丸根砦も松平勢の攻撃を受けて陥落し、守将の佐久間盛重は討死した。義元本隊は5000ほどの兵を率いて沓掛城を出発し、桶狭間北方約2kmの田楽狭間で小休止をとったという。一方の織田勢は、19日未明に信長はわずか5騎で出陣し、熱田神宮に向かった。主君の出陣を知った家臣達が慌てて追いかけ、熱田神宮に到着した時には200騎ほどに増えた。ここで戦勝祈願をしている最中にも続々と兵が集まり、1000騎ほどになったという。信長は佐久間信辰(さくま のぶとき)が守る善照寺砦に入った。ここで丸根・鷲津両砦の陥落を知った信長は、さらに兵を進めて中島砦に入った。この時、織田軍の兵力は2000ほどであり、今川義元が田楽狭間で小休止しているという情報が入った。この頃、戦場一帯は激しい暴風雨に見舞われたという。信長率いる織田勢本隊は田楽狭間に急行し、午後1時頃に到着。今川本陣に襲い掛かった。午後2時頃、激しい戦いの末、義元を守る兵は300騎から50騎まで減少した。織田勢の服部小平太(はっとり こへいた)が義元に一番槍をつけたが、義元は宗三左文字の太刀を振るって小平太の膝を切り払う。ここに同じく織田勢の毛利新介(もうり しんすけ)が助太刀に入り、義元の首を挙げたのであった。
こうして、戦いは今川義元の首を挙げた織田勢の大勝利に終わった。
桶狭間古戦場と伝えられる場所はもう一箇所あり、謎はまだまだ多い。 (2003年6月7日撮影) |
今川勢はおよそ3000あまりの兵を失って敗走した。午後4時頃、信長は義元の首を掲げて意気揚々と清洲城に凱旋したという。一方、丸根砦を落とした後、大高城に入っていた松平元康は、義元の死を知り、夜になって城を抜け出して故郷の岡崎城に入った。後に、今川家から独立し、信長と同盟することになる。
桶狭間の戦いは一般にも知られている有名な戦いでありますが、奇襲であったかそうでないかなど、詳細はまだまだ不明な点が多いのが現状です。上記はそれらをまとめたものなので、不完全な部分や事実と異なる部分が含まれている可能性があります。
<参考>
・日本全史(講談社)
・ビジュアル日本の歴史 No.1(デアゴスティーニジャパン)
・桶狭間合戦資料館
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