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王政復古の大号令

<概要>

慶応3年(1867年)12月9日のことであった。15代将軍・徳川慶喜(31歳)は10月に大政奉還を上奏し、幕府の解体を提案しているが、それは徳川家の滅亡を意味しているものではなく、新政府に自分も加わることで徳川家の力を温存する狙いがあった。討幕を考えている岩倉具視(43歳)や薩摩藩、長州藩は、新国家に徳川家の勢力が残されることを嫌った。この日、薩摩、土佐、広島藩の兵が御所の全ての門を守り固め、二条城の旧幕府勢力を排除した形で王政復古の大号令が発せられた。摂政、関白、幕府を廃止し、新たに、総裁(そうさい)、議定(ぎじょう)、参与(さんよ)の三職さんしょく)を設置し、朝廷が政治を運営していくことが宣言されたのである。
同日夜、宮中の小御所(こごしょ)にて三職による会議が開かれた。この会議は「小御所会議」と呼ばれている。小御所会議では、岩倉・薩長の討幕派と、山内容堂(41歳)をはじめとする公議政体派が、徳川家の処置を巡って論争になった。山内は、慶喜を新政府に迎えるべきだと主張し、一時会議は彼の独壇場のようになった。しかし、山内が
「今回の件は、幼冲(ようちゅう)の天子を擁した公卿の陰謀である。」
と発言したことに対し、岩倉が
幼冲の天子とはどういうことだ。今回の件は全て聖断(せいだん:天皇の決断)から出たものである。」
と反論したために形勢が討幕派に傾き、結果として、慶喜の内大臣辞任と800万石に及ぶ領地の返上(辞官納地じかんのうち)が決定された。
新政府から除外された慶喜は、朝廷勢力と衝突することを恐れて大坂城に退去するが、幕末最後の戦いである戊辰戦争の戦端が開かれるのは、翌月のことであった。


三職の構成

総裁

有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう:33歳)

議定

仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやよしあきらしんのう
山階宮晃親王(やましなのみやあきらしんのう
前大納言・中山忠能(なかやま ただやす
前大納言・正親町三条実愛(おおぎまちさんじょう さねなる
中納言・中御門経之(なかみかど つねゆき
前尾張藩主・徳川慶勝
前福井藩主・松平春嶽
広島藩世子・浅野茂勲(あさの しげこと:後、長勲(ながこと))
前土佐藩主・山内容堂
薩摩藩主・島津茂久(しまづ しげひさ:後、忠義(ただよし))

参与

岩倉具視
大原重徳
万里小路博房(までのこうじ ひろふさ
長谷信篤(はせ のぶあつ
橋本実梁(はしもと さねやす
他、薩摩・福井・広島・土佐・尾張藩士より3人ずつ12日に任命。
薩摩藩士:西郷隆盛、大久保利通、他1名
土佐藩士:後藤象二郎、福岡孝弟、他1名
福井藩士:由利公正(ゆり きみまさ)、他2名
翌年、長州藩より、木戸孝允、広沢真臣(ひろさわ さねおみ)らを任命。

討幕派の決意

王政復古の大号令は、岩倉と薩長によるクーデターであった。討幕派の彼らは徳川家を排除するために、なんとしてでもこのクーデターを成功させたかったようだ。小御所会議の前半は、山内容堂が正論で押しまくり、討幕派に不利な形勢であった。会議は一時中断して休憩となったが、控えの間にいた西郷はこの話を聞いて短刀を示し、山内が自論を引っ込めないようであればその場で殺害する、という意志を見せたという。

王政復古の大号令

徳川内府従前御委任ノ大政返上、将軍職辞退ノ両条、今般断然聞(きこ)シ食()サレ候。仰(そもそも)癸丑(きちゅう:1853年)以来、未曾有ノ国難、先帝頻年宸襟(しんきん)ヲ悩サレ候御次第、衆庶ノ知ル所ニ候。之ニ依リ叡慮ヲ決セラレ、王政復古、国威挽回ノ御基(もとい)立テサセラレ候間、自今摂関幕府等廃絶、即今、先()ス仮ニ、総裁・議定・参与ノ三職ヲ置カレ、万機行ハセラルヘシ。諸事神武創業ノ始ニ原(もとづ)キ、縉紳(しんしん:公家)、武弁、堂上、地下(じげ)ノ別ナク、至当ノ公議ヲ竭(つく)シ、天下ト休戚(きゅうせき)ヲ同シク遊(あそば)サルヘキ叡慮ニ付キ、各(おのおの)勉励、旧来ノ驕惰ノ汚習ヲ洗ヒ、尽忠報国ノ誠ヲ以テ奉公致スヘク候事。

「三条実美公年譜」

岩倉具視と岩倉が雇っていた国学者・玉松操たままつ みさお)、大久保利通らによって作成された。「先ス仮ニ」とあるように、三職の制度は暫定的なものであって、翌年の閏4月の政体書によって太政官制度へ移行された。

<参考>
・新日本史B(桐原書店)
・日本全史(講談社)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・日本史史料集(駿台文庫)

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