慶応3年(1867年)11月15日夜。河原町四条の醤油商近江屋にて、海援隊長の坂本竜馬(33歳)と、陸援隊長の中岡慎太郎(30歳)が何者かによって暗殺されるという事件が起こった。坂本は頭と背を斬られて現場で死亡し、中岡も重傷を負って二日後の17日に死去した。
先月、幕府が大政奉還を上奏した後、坂本は新国家への平和的な移行を構想しており、中岡は薩長と連携した武力討幕を考えていたという。しかし、二人は緊密に連携しており、事件当日も中岡が審議のために坂本を訪問していたところであった。坂本は数日前まで近くの材木商酢屋に滞在していたが、刺客を避けて近江屋に移っていた。
事件当夜、刺客団は客を装って手札(名刺)を店の者に渡した。2階の二人のもとへそれを届けるために、彼が階段をあがるのを刺客団がつけて背後から斬りつけ、二人の部屋へ侵入して襲い掛かった。
坂本は大政奉還の事実上の立役者であり、中岡もまた薩長連携に貢献した志士であり、両者を失ったことは大きな損失であった。
暗殺の犯人は誰なのか。当初は新選組の手によるものだと考えられていた。現場には蝋色の鞘と下駄一足が遺留品として残されていた。21日、土佐藩の谷守部(たに もりべ)と毛利恭助(もうり きょうすけ)がこの鞘を持って、中村半次郎(なかむら はんじろう)の案内で伏見の薩摩藩邸を訪れた。その時、その場にいた高台寺党隊士に見せたところ、新選組の原田左之助(はらだ さのすけ)のものであると証言した。また、殺された中岡の話によると、刺客は「コナクソ」と叫んで襲い掛かってきたという。「コナクソ」とは四国弁であり、容疑者の原田は伊予松山出身であった。他の四国出身新選組隊士には、前野五郎(まえの ごろう)がおり、剣の腕も立つ男であった。
また、怨恨の線を辿っていくと、坂本に大きな恨みを持つ人物に当った。紀伊藩士の三浦休太郎である。三浦は、亀山社中と紀伊藩の藩船が瀬戸内海で衝突した事件で、多額の賠償金を坂本から要求されたことがあり、かなりの恨みを持っていたという。また、三浦は強硬な佐幕論者であり、新選組とのつながりも濃厚であった。坂本の弟子であった陸奥陽之助(むつ ようのすけ:後の陸奥宗光)が、坂本と親しかった紀伊藩御用達商人の加納宗七から様々な情報を仕入れ、12月7日の夜9時頃、三浦と新選組に対して報復を行った。
陸奥を筆頭とする襲撃部隊16名は場所は油小路花屋町の天満屋で、三浦と斎藤一ら新選組が宴会を開いているところを襲撃した。この闘いで新選組隊士で近藤勇の甥の宮川信吉が戦死。襲撃側は十津川郷士の中井庄五郎が斎藤に斬られて戦死した。三浦は軽傷を負ったのみで、一命をとりとめている。
このように、当時は新選組が犯人だったと考えられており、明治になってもしばらくの間はそう考えられていたようだ。
明治33年(1900年)発行雑誌「近畿評論」に掲載された「今井信郎氏実歴談」で、元見廻組の今井信郎が坂本殺しを告白した文章が
掲載され、この頃から見廻組説が有力になっていった。
さらに調査が進み、見廻組隊士の桂早之助の子孫の家から、坂本を斬ったとされる小太刀(霊山歴史館に所蔵されている)と関係資料が発見され、見廻組説を裏付ける一級証拠となった。桂は京都所司代同心の家に生まれ、優れた剣士であり特に小太刀の扱いに優れていたという。現在では、坂本・中岡暗殺の実行犯は見廻組で、坂本を斬ったのは同隊士の桂早之助であるとするのが有力であるようだ。