1863年(文久3年)7月2日。鹿児島沖で、早朝からイギリス艦隊7隻と薩摩藩の砲台の間で砲撃戦が行われた。事の始まりは前年の生麦事件である。イギリスは薩摩藩に対して下手人の処刑と賠償金を要求したが、薩摩藩はこれを拒否。イギリスは軍艦を派遣し、軍事的威圧をかけながら交渉を行ったが、薩摩藩は拒絶を続けていた。痺れを切らしたイギリス軍が薩摩藩の藩船を拿捕したことが、きっかけとなって砲撃戦となった。
この砲撃戦で薩摩の街はおよそ1割が焼失してしまうほどの損害を受けたが、かねてより実弾訓練や模擬戦を重ねて軍事力の強化に当っていた薩摩藩も奮戦し、イギリス艦隊は損害を被って退却した。
この年の10月29日、薩摩藩とイギリスの間で和議が結ばれ、薩摩藩は賠償金を支払うことを認めたが、生麦事件の下手人の処刑は行わなかった。この戦争の後、薩摩藩は攘夷の実行は難しいことを知ると、イギリスと結んで近代化に積極的に乗り出すようになる。イギリスも幕府に見切りをつけて、外交方針を薩摩藩との協調に転換した。外交官のアーネスト=サトウはじめ、薩摩藩に力を貸す者も現れた。
ちなみに、イギリスのライバルであるフランスは終始、幕府を援助する方針をとり、日本でも両国は対立関係にあった。
イギリス艦隊が鹿児島湾に姿を現したのは6月27日。艦隊の姿を確認した薩摩藩は号砲を鳴らして防衛態勢を整えた。翌28日、イギリス艦隊は湾内に侵入し、緊張が高まる中で交渉が開始された。しかし、一戦交えることも辞さなかった島津久光(47歳)は交渉に応じる気配を見せずに回答を引き延ばした。29日には、スイカ売りに化けた藩士たちを軍艦の停泊地に派遣し、軍艦を乗っ取ろうとしたが、失敗した。
7月2日。暴風雨になったのを機会に、イギリス艦隊は薩摩藩の汽船3隻を拿捕した。汽船3隻の価格は、賠償金として要求している2万5千ポンドを上回るらしい。これで、薩摩藩が交渉に応じるとイギリス艦隊は考えていたようだが、久光は砲撃開始の命令を伝えた。当初はイギリス艦隊は応戦の準備をしておらず、一方的に砲弾を浴びせられることになったが、態勢を立て直すと凄まじい反撃に出た。しかし、荒天という悪条件の下では十分な力を発揮することができず、イギリスは交渉をあきらめて3日には撤退すべく南下。4日に戦死者の水葬と艦船の応急処置を施して鹿児島湾から姿を消した。
なんとかイギリス艦隊を撃退した薩摩藩であったが、砲台はほぼ壊滅し、自慢の集成館(洋式工場群)もほとんどが焼失してしまった。
薩摩藩が備えていた砲台は10箇所で、合計86門。射程距離はおおよそ1000mだった。イギリス軍艦は最新式の大砲・アームストロング砲を含めて全部で89門。射程距離は4000mにも及んだという。砲弾にもかなりの違いがあった。薩摩藩の砲弾は円弾(球形)で導火線で爆発させるというものであったが、イギリス軍のそれは、尖長弾(現在の弾丸の形)で信管が付いているため物に当れば爆発するものであった。砲の性能面ではイギリス軍が圧倒していたが、荒天という不利な条件が重なったこともあり、イギリス軍は被害を被って退却するという形になった。