文久3年(1863年)5月10日。関門海峡を一隻の船が通過していた。船はアメリカの商船ぺムブローク号。横浜から長崎を経由し、上海に向かう途中であった。攘夷決行を唱える長州藩の久坂玄瑞(くさか げんずい:24歳)らは光明寺に本営を置き、この船に対し砲台と軍艦の両方から砲撃を加えたのである。ぺムブローク号は、ほうほうの態で上海に逃走した。
長州藩による攘夷の砲撃はこれだけでは終わらなかった。23日にはフランスの通報艦キンシャン号を砲撃し、26日はオランダ軍艦メデューサ号を砲撃した。メデューサ号は30発余りの砲弾を浴び、死者4名を出して逃走した。士気上がる長州藩であったが、欧米列強の軍事力を見せ付けられるのはこれからだった。
6月1日、アメリカ軍艦ワイオミング号は猛烈な反撃を加え、亀山砲台を破壊し、長州藩の軍艦、庚申(こうしん)丸、壬戌(じんじゅつ)丸は撃沈され、癸丑(きちゅう)丸は大破した。さらに、6月5日にはフランス軍艦2隻が沿岸砲台を砲撃したばかりか、250人の陸戦隊を投入して銃撃戦が繰り広げられた。この戦いで前田、壇ノ浦砲台は破壊され、長州藩は敗北を喫したのである。しかし、長州藩は攘夷をやめようとはしなかった。6月24日、対岸の小倉藩領である田野浦を占拠して砲台を築造し、海峡を通航する外国船に対して砲撃をやめなかったのである。
列強は幕府に対して抗議を行ったが、長州藩による外国船砲撃の一件は、翌年8月の四国艦隊下関砲撃事件まで決着を見なかった。