下関条約

1895年(明治28年)、前年に戦端が開かれた日清戦争の講和会議が、3月20日から開かれた。日本の代表は、全権弁理大臣の伊藤博文(55歳)と外務大臣の陸奥宗光(52歳)ら。清の代表は全権大使の李鴻章りこうしょう:73歳)らで、両国合わせて11名が会議に臨んだ。
24日の午後4時頃、李鴻章が宿所に戻るところを凶漢に狙撃されて負傷するという事件が起きたために会議は一時中断となったが、4月10日に会議は再開され、17日に調印となった。講和条約の主な内容は以下の通り。

@清国は朝鮮の独立を認めること(これまで主張していた宗主権を放棄すること
A清国は遼東半島、台湾、澎湖(ほうこ)諸島を日本に割譲すること
B清国は賠償金として2億両(「テール」と読む。およそ3億1000万円)を日本に支払うこと
C新たに通商航海条約を結び、沙市、重慶、蘇州、杭州の4市を開港すること

この結果、日本は清に対する朝鮮半島における優越を確立したうえに、多額の賠償金を得ることによって国庫も大いに潤った。日本と清の勢力均衡は日本に傾き始めていたが、世界的な視野から見れば、東アジアの争乱はこれからが山場を迎えることになる。


会議が開かれた「春帆楼」の脇にある日清戦争講和記念館の建物

賠償金の使途

使途 金額(万円) 比率(%)
総額 36450.9
海軍拡張費 13925.9 38.2
臨時軍事費 7895.7 21.7
陸軍拡張費 5679.9 15.6
軍艦水雷艇補充基金 3000.0 8.2
皇室財産へ編入 2000.0 5.5
明治31年度一般会計補充 1200.0 3.3
教育基金 1000.0 2.7
災害準備金 1000.0 2.7
明治30年度臨時軍事費 321.4 0.9
八幡製鉄所創立費 58.0 0.2
使途未定残金 370.0 1.0

総額には、三国干渉による遼東半島の還付金(およそ5000万円)と利子が含まれている。
戦争で勝ち取ったお金だけあって、その内訳の半分以上は軍事費である。
日清戦争は近代日本が最初に経験した対外戦争であり、国民の関心も非常に高いものであったが、最初の経験で戦争のおいしい味をしめてしまった。後の日露戦争で賠償金がとれない講和条約が結ばれた時、暴動が発生した遠因の一つはここにあると思われる。

伊藤の思惑と狙撃事件

1895年の1月下旬。戦争の講和条約の内容について、御前会議が開かれた。この御前会議で決まった内容は

@朝鮮の独立
A遼東半島、台湾の割譲
B軍費賠償
C列強と同等の権利獲得

など。
結果は、遼東半島の領域がやや縮小されたことと、賠償金が予定の3分の1に減額されたことを除けば、当初の要求はほぼ認められた形になった。
開戦前の日本は、この戦争は短期で勝利を掴み、いい条件で講和する、という戦略を立てていたという。人口も国土の面積も桁が違う清を相手に、血みどろの長期戦を演じれば勝ち目はなくなる、と考えられていたためである。そのため、講和を持ち込む時期がたいへん重要であった。御前会議の後、日本軍が威海衛軍港を占領する。一説によると、軍部はさらなる戦果の拡大のために戦争継続を考えており、伊藤らも、戦況がさらに好転すると見込んで、講和会議を長引かせるという態度に出たという。
しかし、会議が始まって間もない3月24日午後4時頃、清の李鴻章が自由党の小山豊太郎にピストルで撃たれて重傷を負うという事件が発生してしまった。講和会議で相手国の大使が自国民に傷つけられたこの事件は、近代国家としての日本の立場を強く揺るがすものであっただろう。こうなってしまうと、会議の長期化というような外交戦略どころではなく、李鴻章の回復を願い、講和条件を緩めざるを得なかったのではないだろうか。

下関条約

下関条約(日清講和条約)は全11条からなる。

第一条
清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス。因テ右独立自主ヲ損害スヘキ朝鮮国ヨリ清国ニ対スル貢献典礼等ハ将来全ク之ヲ廃止スヘシ

第二条
清国ハ左記ノ土地ノ主権竝ニ該地方ニ在ル城塁、兵器製造所及官有物ヲ永遠日本国ニ割与ス
一 左ノ経界内ニ在ル奉天省南部ノ地・・・
ニ 台湾全島及其ノ附属諸島嶼
三 澎湖列島・・・

第四条
清国ハ軍費賠償金トシテ庫平銀二億両ヲ日本国ニ支払フヘキコトヲ約ス。・・・

第1条が朝鮮の独立を認めさせたもので、「貢献典礼:これまで朝鮮が清に貢物を献上し、臣下の礼をとること」も廃止させている。これは、「朝鮮」という土地を日本が獲得するために、清が立ち入る隙を与えないことが目的だっただろう。もっとも、朝鮮を狙っているのは列強のロシアも同様であり、さらにそれに対する列強各国の利害関係も絡めて考えると、日本の立場はまだまだ弱いものであった。三国干渉を受けるのはこの直後である。
第2条は領土割譲の件。一の「奉天省南部ノ地」は遼東半島を示している。他については、上記の通りである。
第4条は2億両の賠償金の件。「庫平銀」とは、清国で納税のために用いられた秤のこと。2億両は当時の日本円でおよそ3億円であり、日本が使った戦費は約2億円なので、実費の1.5倍の費用を獲得したことになる。賠償金として適当な値かどうかはともかく、この金によって、1897年に金本位制を樹立するに至っている。
また、第6条では以前に結んだ「日清修好条規」を廃し、協定関税制や治外法権など、日本や清が列強と結んでいる(結ばされている)不平等条約「日清通商航海条約」(1896年締結)を結ぶことを認めさせている。清において、日本の立場が列強と同等になることを狙った条項である。
日本が欧米列強のような帝国主義国家への道を歩んでいたことは、この条約の内容にも如実に現れていると言えるだろう。日本が清に勝ち、帝国主義諸国に組したことで、東アジアの国際情勢は新たな展開を迎えることになる。

<参考>
・新日本史B(桐原書店)
・日本全史(講談社)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・日本史史料集(駿台文庫)
・日清戦争講和記念館展示資料(山口県下関市)

明治時代年表へ戻る
「史跡探検記 日清戦争講和記念館」へ
侍庵トップページへ戻る