天誅組の乱

<概要>

尊王攘夷思想は、攘夷を決行しようとしない幕府を倒す、という討幕思想へと変化していくことになるが、討幕を目標として蜂起したのが天誅組であった。天誅組とは、土佐藩の吉村寅太郎よしむら とらたろう:27歳)らが公卿の中山忠光なかやま ただみつ:19歳)を首領に擁した尊攘派集団である。文久3年(1863年)8月17日、天誅組数十名は南大和を管轄する五條代官所(現在の奈良県五條市)を襲撃して占拠したが、諸藩の軍に包囲されて壊滅した。
一部の尊攘派は、天皇の大和行幸を実行しその場で討幕の親兵を挙げる、という画策しており、今回の天誅組の蜂起はそのさきがけとなるものであったという。
天誅組の挙兵は失敗に終わり、長州藩を主とする討幕派の力は一時的に衰退することになる。


天誅組蜂起の流れ

8月17日、天誅組は五條代官所を襲撃し、代官の鈴木源内はじめ、数人の役人を討ち取り、罪状を記した高札と共に首を晒した。翌18日、村役人を集めて攘夷親征挙兵の旨を布告した。しかし、この8月18日は京都で政変が起こった日であった(8月18の政変)。天誅組は吉野に本陣を移し、古代から尊王思想が色濃く残っている十津川の郷士1200人を徴集して戦力を増強していたが、京都政界で長州藩が失脚したことに伴って、彼らの正当性も失われてしまった。26日には高取藩と交戦して敗れ、山中を逃走したが9月下旬には追い詰められて壊滅した。
首領の中山忠光は、命からがら大坂の長州藩邸まで逃走し、その後長州藩に落ち延びた。

五條代官所

代官所は地元では「陣屋」と呼ばれていた。五條代官所が管轄していたのは南大和7万石であり、石高だけなら小大名に匹敵する。しかし、代官所に勤める武士(役人)はたったの13人しかいなかったという(ちなみに、忠臣蔵で有名な赤穂浅野藩の紙面上の石高は53000石で、藩士は200人以上いた)。

<参考>
・日本全史(講談社)

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