山陽・九州攻略を目標として出発した源範頼率いる源氏軍は、苦戦しながらも徐々に兵を進め、周防から豊後に渡り、太宰府の攻略に着手しようとしていたそうです。一般的には、範頼の軍は大苦戦していたために、再び義経が起用された、と思われているようです。確かに、範頼の軍がたいへんな苦戦を強いられていたことは事実のようですが(←「吾妻鏡」には、窮状を伝える範頼の手紙が数枚残っている)、範頼の軍は太宰府を攻略しているそうです。そうだとするならば、範頼の軍も、平氏討伐戦に十分貢献した、と言えるのかもしれません。さて、京都に滞在していた源義経(27歳)。再び平家追討使に任じられ、招集した水軍をもって屋島に攻め込もうとしましたが、ここで一悶着起こったのが平家物語に伝わる「逆櫓(さかろ)」のエピソードです。
1185年(元暦2年)2月、摂津国渡辺(現在の大阪城のあたり)に招集した軍船に「櫓」をつけるか否かで、義経と梶原景時の間で論争になった、と平家物語は伝えております。景時は「船尾、舳先に櫓を付け、さらに脇舵も付けて、どちらにも回しやすい様にすべき。」と主張しましたが義経は「初めから逃げ支度など、縁起でもない。」と反対。二人は仲が良いとは言えない関係です。意見の食い違いはやがて論争に発展しました。
景時「この猪武者め!!」
義経「ひたすら攻めて攻めて勝つのが戦である。」
あまり仲の良くない二人が、戦の話で論争になったら、もっと激しい言葉の応酬もあったことでしょう。周囲にいた武士たちは「今にも同士討ちが起こるだろう。」と恐れおののいていたそうです。
この論争の後、義経は郎党はじめごく一部の武士を率い、200余艘の軍船のうち5艘だけを使って2月17日の夜、暴風雨の中を漕ぎ出してしまいます。
2月18日の朝。義経一行は、暴風雨を乗り越え、阿波国勝浦に上陸しました。早速、現地の源氏方勢力を集めると、平氏に味方する桜間介能遠(さくらばのすけよしとお)の城を攻め落としてしまいます。義経の軍事行動は常に速いです。休息もそこそこに、屋島に向かって軍勢を進め、通常なら2日の道のりをわずか一晩で進み、2月19日、状況の変化が平氏本陣に伝わらないうちに、屋島の背後まで進出してしまったのです。
屋島の守りは、海側に集中していたそうです。源氏も水軍を集めているという情報は、平氏にも入っていたでしょうから、源氏は水軍で海から攻めてくる、と考えても不思議はありません。さらにこの時、平氏にとって不幸なことに、地元有力武士の阿波民部重能(あわのみんぶしげよし)(「田口重能」のこと)が、伊予の反平氏勢力を討つために、一軍を率いて出陣していたのです。守りが手薄になっていたわけですね。義経は、まず周囲の民家に火を放ち、さも大軍が押し寄せたかのように演出して攻撃を始めました。この攻撃で平氏はまたしても慌てふためき、船に乗って海に逃げ出し始めます。しかし、落ち着いてよく見てみると、攻めて来た源氏軍はごくわずかなものではありませんか。これなら勝てる!!というわけで、平氏の中でも勇猛な武者たちが反撃にうつるわけです。
詞戦い
「詞戦い」とは、簡単に言うと悪口の言い合いです。合戦が始まる前に口達者な武者が前に出てきて、詞戦いを行うのが当時の習慣になっていたようです。現代でも、子供の喧嘩は(大人も?)悪口の応酬から始まりますね。この詞戦いに登場したのは、源氏側から伊勢三郎義盛(いせのさぶろうよしもり)。平氏側からは越中次郎兵衛盛嗣(えっちゅうのじろうびょうえもりつぐ)でした。具体的には
義盛「九郎判官大夫殿こそ、我らの大将軍なり」
盛嗣「平治の合戦で父を討たれた孤児で、鞍馬山の稚児になり、のちに金商人の従者になって奥州まで落ちていった小冠者のことか?」
義盛「お前達こそ、砺波山の戦いに敗れて北陸道を命からがらさまよい、乞食をして泣く泣く都へ逃げ上った連中ではないか」
盛嗣「そういうお前こそ、もとは伊勢の鈴鹿山で山賊をしていたと聞いているぞ」
と、このようなかんじで言い合いが行われたと、平家物語は伝えております。この詞戦いは、盛嗣が源氏武者の矢を受けて負傷したことで幕を閉じ、本格的な合戦が始まりました。
嗣信の最期
始まった弓矢の射撃戦で活躍した武将は、平家一門中で一番の猛将と評判を受けている平教経(たいらののりつね:26歳)でした。教経は強弓を用いて次から次へと源氏武者を射抜きました。その狙いは、源氏軍大将の源義経です。主君・義経の危機を感じた佐藤嗣信(さとう つぐのぶ)は、義経をかばって教経の矢に射抜かれてしまいます。教経の家来・菊王丸は、落馬した嗣信の首をはねようとしましたが、嗣信の弟・佐藤忠信(さとう ただのぶ)の矢を受けて斃れてしまいます。それを見た教経は、船から下りると菊王丸を右手でグイっとつかみ、船に放り投げてしまったそうです。恐るべき力持ちです、教経。ともあれ、これを機に、射撃戦は中断となりました。
奥州出陣以来の郎党である佐藤嗣信の矢傷は致命傷でした。平家物語巻11「嗣信の最期」には、嗣信の遺言としてこのように記されています。
「主君の命に代わって討たれたと、末代までも語り伝えられることは、弓矢をとる身として今生の名目。冥土の思い出です。」
この言葉は、まさに郎党の鑑と言えるでしょう。嗣信の遺言は、武士の献身道徳の例として、後の世でもしばしば取り上げられたそうです。
ちなみに、この嗣信最期の言葉は、平家物語の中でも、ものによって若干内容が異なっております。屋代本では
「どうして思い残すことがないでしょうか。第一に、奥州に残してきた母に会えないこと。第二に、あなたが天下を取るのを見届けることができないこと、です。」
という内容になっているそうです。屋代本の遺言では、武士の献身道徳の教材にはとても使えない内容ですが、一人の人間として自然な感情が表現されているようにも思えます。さらに、現存する中では最も古いと推定されている延慶本では、これらの遺言については全く記述がないそうです。嗣信の遺言の内容の史実は、まだ研究段階にあるようですね。
扇の的
陸を占拠したものの、船がないためにそれ以上攻め込めない源氏軍。なかなか屋島奪回に動こうとしない平氏軍。両軍の戦いは膠着状態となります。そんな中、平氏の軍船の中から一隻、舳先に扇を掲げた船が前に出てきました。これは、「この扇を射抜ける人はいるかな?」という戦中の座興でありました。当時の「戦」では、敵味方の間でこのような座興が行われることも珍しくはなかったそうです。さて、弓の腕を問われた源氏軍。これに応えられなければ、平氏から笑い者にされてしまいます。弓に優れた武士が多い中で、下野国の武士・那須与一宗高(なすのよいちむねたか)が射手として選ばれました。選ばれた与一はたいへんな名誉ですが、失敗したら武士としての命に関わるほどの罵声を受けるかもしれません。与一は馬を海中に進め、足場の良い岩で馬を止めます。そして、波で船と共に揺れる扇に狙いを定め、見事に扇を撃ち抜いたわけです。見事な与一の腕前に、源氏平氏の両軍からは歓声が上がりました。船に乗っていた50歳ほどの平氏の老武者などは、船上で踊り始めるほどです。そんな時に、義経の知恵袋的な存在である伊勢三郎義盛が与一に近づき、義経の命令である、と伝えて踊っている老武者も射抜いてしまいました。これが本当に義経の命令であったかどうかはわかりません。しかし、この事態に両軍の歓声は一瞬にして消滅してしまい、たちまち険悪な雰囲気になってしまいます。
悪七兵衛景清の錣引き
源氏のこの仕打ちに怒りを覚えた平氏軍から、3人の武者が渚に降り立ち、大きな盾を浜について源氏を挑発します。この中の一人が、平氏を代表する猛者の一人・平景清(たいらのかげきよ)でした。景清は、悪七兵衛景清(あくしちびょうえかげきよ)の名前で様々な後日譚を残している人物です。
さて、景清ら3名の平氏武者を討ち取ろうと、源氏軍から5名の武者が飛び出しました。先頭におどり出た三保谷十郎(みおのや じゅうろう)は、馬が矢を受けて倒れてしまいますが、十郎自身は態勢を立て直して着地。それと同時に太刀を抜き放つという技を見せますが、平氏の盾から大長刀を持った景清が、ぬっ、と姿を現しました。驚いた十郎、これは敵わん、と思ったのか、背を向けて逃げ出します。しかし景清は逃げる十郎の兜の錣(しころ)をグイっと掴んだのです。逃げようとする十郎と捕まえようとする景清。この力比べは、錣がブチっと引きちぎれ、十郎が逃げ出したことで幕を閉じました。なんとか窮地を逃れた十郎ですが、武士にとってこれはあまり名誉なことではありません。案の定、景清は引きちぎった錣をブンブン振って「我こそは悪七兵衛景清」と名乗りを上げ、自分の武勇を誇り、源氏軍を挑発しているではありませんか。これをきっかけに、景清を討とうとする源氏軍とそれを阻もうとする平氏軍の間で、再び激しい戦闘が繰り広げられました。この時は既に夕暮れだったそうです。
義経の弓
源氏武者は馬で海に突入し、平氏武者は船上から熊手や長刀で防戦。夕暮れの戦いは一進一退であったそうです。この最中、義経の弓が熊手に引っ掛けられ、海に落ちてしまいました。義経は、鞭で弓を手繰り寄せようとしますが、戦場の真っ只中でそんなことをしているのは危険きわまりありません。家来が「そのような弓の1,2本、お捨てください!」と止めますが、義経は聞く様子もなく、うまく弓を回収すると笑いながら陣に引き返したそうです。
このエピソードには、実は義経は小柄で非力であった、ということが隠れています。当時の坂東武者の武勇を測る手段の一つに、どれだけ強い弓を引けるか?というものがありました。たいへん強い弓を引くことが、自慢の一つだったわけですね。戦術的には目を見張るほどの戦果を上げた義経ですが、本人の武勇はどれほどのものであったのかというと、身のこなしが素早い分、小柄で非力であり、弱い弓しか引けなかったそうです。なので、義経にとって弱い弓を引いているということは、他人には知られたくなかったことでしょう。
屋島の戦いの決着
日暮れとともに戦いは終わりました。暴風雨を乗り越え、休む間もなく合戦→進撃→合戦と繰り返してきた源氏軍は疲労のピークに達していました。さすがの坂東武者もこの夜はぐっすりと眠ってしまいましたが、義経と義盛は一睡もせずに見張りをしていた、と言われてい
ます。
さて、翌日。平氏軍は屋島奪還のために、東の志度浦(しどのうら)に上陸しようと試みますが、源氏軍に阻まれてしまい、屋島を捨てて西に向かいます。しかし、義経の軍には新たなる危機が迫っていました。阿波民部重能の嫡男・田内左衛門教能(でんないざえもんのりよし)が、伊予から3000騎を率いて屋島に帰ってくる、という報が入ったのです。屋島を占領したとはいえ、3000騎という数は脅威的です。この危機に対応したのは、義経の知恵袋・伊勢義盛でした。義盛は白装束、丸腰の16騎を率いて教能の軍を待ち受けます。そして、義盛は教能に面会すると
・屋島は陥落
・安徳天皇は入水
・父の重能は捕虜となった
と、虚報を流したのです。屋島が陥落したのは事実ですが、安徳天皇は平氏軍とともに落ち延びていますし、重能もそれに従っているのが事実です。しかし、教能は義盛の言葉を信じ、源氏に降伏してしまいます。この結果、教能は捕虜となり、教能が率いていた3000騎の軍も説得されて、源氏についてしまったのでした。
2月21日、梶原景時が200余艘の水軍を率いて屋島に到着したときは、平氏軍は屋島奪還を諦めて西に落ち延びておりました。この頃は、源範頼によって太宰府も奪われていたため、平氏が落ち延びる場所は、平知盛が守る長門の彦島しか残っていませんでした。
屋島の陥落により、源氏 vs 平氏の戦いの趨勢は大きく源氏に傾きます。日和見を決め込んでいた各地の武士のほとんどは源氏に味方し、また熊野水軍をはじめとした瀬戸内の水軍衆の多くも源氏に味方することを決めました。平氏の運命は、風前の灯となったわけです。
<参考>
・別冊歴史読本「源氏対平氏」(新人物往来社)
・図説 平家物語(河出書房新社)
・平家物語が面白いほどわかる本(中経出版)
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