「去年の無念、今年こそ・・!」
去年、拙者は普段お世話になっている多聞城茶会の松永弾正殿が、数少ない合戦形式であるこの一大イベントに参戦する、との話を聞き、是非とも弾正殿の部隊に加えてもらって参戦したい!と思ったのでありますが、都合がつかずに断念いたしました。。
しかし、今年はついに参加することができました\(^O^)/!
4回目の歴史祭り参加、合戦形式の祭りは初めてとなった今年の石和。気温と共に拙者の士気も上昇。戦場を駆け巡るぞ〜〜!!
さて、この石和川中島戦国合戦絵巻。由来は石和町に「川中島」という地名があったため、昭和54年にこのイベントを企画。それ以来、毎年4月の「桃の花まつり」の最後を飾るイベントとして行われてきたそうです。
実際の川中島の戦いは、信濃北部で甲斐の戦国大名・武田信玄と、越後の戦国大名・上杉謙信が5回にわたって争った戦いで、特に有名かつ激戦となったのが、永禄4年(1561年)の第4次川中島合戦でありました。単に「川中島の戦い」と言うと、普通はこの第4次の戦いを指します。石和町では、この第4次川中島合戦を約800名の武者が武田軍・上杉軍に別れて戦う、といった形で再現するという、大規模な歴史イベントを行っているのであります。合戦形式といっても、参加者全員が本気で斬り合ったら怪我人続出は免れないので、それはできません。例えるなら、映画などの合戦シーンに実際に自分が入ってみる、といったものでしょうか。参加した方々の話を聞くと、実に楽しそうでありました(^o^)。
して、今回の拙者の役柄は上杉軍・新発田長敦(しばた ながあつ)隊の足軽であります。拙者が所属する松永弾正隊は、去年と同じく上杉軍の武将・新発田長敦役となったため、当然のことながら新発田長敦役は松永弾正殿が務め、拙者はその配下の足軽の一人、という割り振りになりました。足軽といっても侮ることなかれ。石和合戦に参加した先輩方の話、自分自身の経験を総合すると「動きやすいのは、間違いなく足軽」なのでござる。足軽の見た目は、武将の鎧兜にはとても及びません。防御力という面でも、鎧兜に身を包んだ武者には劣るかもしれません。しかし、その分は動き易さで補えまする。
初めての合戦形式なら、動きやすい足軽で存分に楽しもう!
と、これまで参加した3つの歴史祭りとは異なる目的で行って参りました!
2003年4月20日 午前6:20
甲府駅
初めて乗った夜行バス。 |
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午前7時ぐらいに集合場所である石和南小に到着。よし!一番乗りでござる\(^O^)/! |
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じゃんけんの結果、副将は今回歴史祭り初参加の一条信龍殿が務めることとなりました。弾正隊の家老役を務める黒龍斎殿、横内鞠雄殿が着付けを手伝い、とりあえず先に着付け完了となったメンバーで写真撮影を一枚。 |
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こんな感じで弾正隊の準備は進み、刀(今回も竹光。合戦形式なので当然)で遊んだり写真を撮ったりしていたのですが、大将・弾正殿の着付けでちとハプニングが生じてしまいました。午前11時には上杉軍が校庭に集まって説明が行われる予定でしたが、拙者らは時間ぎりぎりに校庭に出て、説明会の直前に謙信公との記念撮影を行うことに。 |
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上杉家の旗印。拙者ら足軽は、この旗を背に戦いまする。 |
こちらは弾正隊の合印、巾着袋。なんと、すべて御大将・松永弾正殿の手作りとのこと! 御大将、お疲れ様でござるm(_ _)m! |