五輪書・火の巻

<くづれを知るといふ事>

崩といふ事は物毎ある物也。其家のくづるる、身のくづるる、敵のくづるる事も、時のあたりて、拍子ちがひになりてくづるる所也。大分の兵法にしても、敵のくづるる拍子を得て其間をぬかさぬやうに追ひたつる事肝要也。くづるる所のいきをぬかしては、たてかへす所有るべし。又一分の兵法にも、戦ふ内に敵の拍子ちがひてくづれめのつくもの也。其ほどを油断すれば、又たちかへり、新敷あたらしくなりてはかゆかざる所也。其くづれめにつき、敵のかほたてなほさざるやうに、たしかに追ひかくる所肝要也。追懸くるは直につよき心也。敵たてかへさざるように打ちはなすもの也。打ちはなすといふ事、能々分別有るべし。はなれざればしだるき心有り。工夫すべきもの也。


現代語訳

崩れということは、何事にもあるものである。家が崩れる、身が崩れる、敵が崩れるのも、その時にあたって拍子が狂って崩れるのである。多人数の戦においても、敵が崩れる拍子をつかんでその時をはずさないように追い立てることが肝要である。崩れた時を逃すと、敵が盛り返すこともあるだろう。また、一対一の兵法においても、戦っているうちに敵の拍子の崩れが目に見えるものである。そこで油断すると、また立ち直って新たな拍子になってどうにもならなくなるのである。敵の崩れが目についた時、立て直されないように追い討ちをかけるのが肝要である。追いかけるのは一気に強くうつことである。敵が立ち直れないように打ちはなすのである。打ちはなすという事はよく理解しなければならない。打ちはなさなければ、ぐずぐずしがちになる。工夫すべきことである。

敵が隙を見せたら、その隙が消えないうちに攻撃を加える、ということは勝負の世界ではごく普通のことである。戦の時はなおさらであろう。敵が拍子を崩した時こそが、攻撃を加えるべき時であるので、敵の拍子が崩れる時を的確に掴むようにしなければならないのである。攻撃の機会を見逃して次を待つ、というのは二流三流のやり方である、という台詞を聞いたことがあるが、確かにその通りではないだろうか?

<敵になるといふ事>

敵になるといふは、我身を敵になり替へて思ふべきといふ所也。世中をみるに、ぬすみなどして家の内へ取籠るやうなるものをも、敵をつよく思ひなすもの也。敵になりておもへば、世中の人を皆相手とし、にげこみてせんかたなき心なり。取籠るものは雉子也、打果しに入る人は鷹也。能々工夫あるべし。大きなる兵法にしても、敵をいへばつよく思ひて、大事にかくるもの也。よき人数を持ち、兵法の道理を能く知り、敵に勝つといふ所をよくうけては、気遣いすべき道にあらず。一分の兵法も、敵になりておもふべし。兵法よく心得て、道理つよく、其道達者なるものにあひては、必ずまくると思ふ所也。能々吟味すべし。


現代語訳

敵になる、ということは、自分が敵の身になって考えることである。世の中を見ると、たとえば盗賊などが家に立てこもっているのを、非常に強い敵のように考えてしまうものである。敵の身になって考えれば、世の中の人を皆敵に回し、逃げ込んでどうにもならない、進退窮まった気持ちである。立てこもっている人は雉であり、討ち取りに入り込む人は鷹である。よく考えなければならない。大人数の戦においても、敵は強いものと考えて大事をとってかかるものである。しかし、十分な人数を持ち、兵法の道理をよく知っており、敵に勝つところをよく心得ているのなら、心配すべきことではない。一対一の戦いも、敵になって考えるべきである。兵法をよく心得て、剣理に明るく、武道に優れているものに遭っては、必ず負けると思うものである。よくよく工夫すべきである。

「相手の身になって考えてみなさい」という言葉は、子供のいじめや悪戯を注意する親や教師がよくいう台詞だが、兵法においても実に大切なことである。敵の身になることができれば、敵の拍子がわかるだろう。敵の拍子がつかむことができれば、有利に戦いを進めて勝利することができるだろう。勝負の世界に限らず、よくある対人関係問題も、「敵になる」ことで道が開けるかもしれない。

<さんかいのかはりといふ事>

山海の心といふは、敵我たたかひのうちに、同じ事を度々する事悪しき所也。同じ事二度は是非に及ばず、三度するにあらず。敵にわざをしかくるに、一度にてもちひずば、今一つもせきかけて、其利に及ばず、各別替りたる事をほつとしかけ、それにもはかゆかずば、亦各別の事をしかくべし。然るによつて、敵山と思はば海としかけ、海と思はば山としかくる心、兵法の道也。能々吟味有るべき事也。


現代語訳

山海の心というものは、敵との戦いの中で同じ事を何度も繰り返すことは悪い、ということである。同じ事を二度するのは仕方ないが、三度してはならない。敵に技を仕掛ける時に、一度で成功しないときはもう一度仕掛けても効果はない。まったく違ったやり方をしかけそれでもうまくいかなければ、さらにまた別の方法をしかけるのである。このように、もし敵が山と思うなら海、もし海と思うなら山と、意表をつくことが兵法の道である。よくよく吟味すべきことである。

効果のないことを繰り返すな、という教えはよく胸に刻んでおかねばならないだろう。効果が上がらないことを何度も繰り返すことは地の巻巻末の9つの教えの最後「役にたたぬ事をせざる事」にかかるものである。例え以前にその方法で成功したとしても、今回も同じやり方でうまくいくとは限らない。その時に応じて変えていかねばならない、という教えは他の書物でもたびたび見かけるものである。

<そとうごしゆといふ事>

鼠頭午首そとうごしゅといふは、敵と戦のうちに、互にこまかなる所を思ひ合はせて、もつるる心になる時、兵法の道をつねに鼠頭午首そとうごしゆとおもひて、いかにもこまかなるうちに、俄に大きなる心にして大小にかはる事、兵法一つの心だて也。平生へいぜい人の心も、そとうごしゆと思ふべき所、武士の肝心也。兵法大分小分にしても、此心をはなるべからず。此事能々可有吟味者也このことよくよくぎんみあるべきものなり


現代語訳

鼠頭午首というのは、敵との戦いの最中にお互いに細かいところばかり気をとられてもつれ合う状況になった時、兵法の道を常に鼠頭午首鼠頭午首と思って、細かな心からたちまち大きな心になって、大きく小さく変わる事が、兵法の一つの心がけである。平生から、鼠頭午首を心がけることが、武士にとって肝心なことである。合戦にしても、一対一の戦いにしても、この心から離れてはならない。よくよく吟味すべきである。

戦いの最中でも、相手のわずかな変化を見逃さないように細心の注意を払うことは大事なことであるが、気にしすぎると細かいところばかりにとらわれてしまう。細心さと同時に大胆さも持ち合わせなければならないのである。武蔵も書いているが、この事は戦という状況に限ったものではなく、普段から心がけておくべきことだろう。


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