<冒頭部分>
兵法二天一流の心、水を本として、利方の法をおこなふによつて水の巻として、一流の太刀筋、此書に書顕はすもの也。此道いづれもこまやかに心の儘にはかきわけがたし。縦ひことばはつづかざるといふとも、利はおのづからきこゆべし。此書にかきつけたる所、一ことゝゝ、一字々々にして思案すべし。大形におもひては、道のちがふ事多かるべし。兵法の利において、一人と一人との勝負のやうに書付けたるなりとも、万人と万人との合戦の利に心得、大きに見たつる所肝要也。此道にかぎつて、少しなり共、道を見ちがへ、道のまよひありては悪道へ落つるもの也。此書付ばかりを見て、兵法の道には及ぬ事にあらず。此書にかき付たるを我身にとつて書付くを、見るとおもはずならふとおもはず、にせ物にせずして、則ち我心より見出したる利にして、常に其身になつて能々工夫すべし。 |
兵法二天一流の心は、水を手本として利益のある方法を実践するので、これを水の巻として太刀筋をこの書に書き表すものである。この道すべてを細かく心のままに書くのは難しいが、たとえ言葉が続かなくても、その利は自然と理解できるだろう。この書に書いたこと、一言一言、一字一字、深く考えなければならない。いい加減に思っていては、道を間違えることが多いだろう。一対一のように書いたことも、万人と万人の合戦のように見立てて大きく見ることが肝要である。この道では、少しでも道を見誤り、迷うところがあると道をはずしてしまうのである。この書付を見てばかりいては、兵法の真髄には及ばない。この書に書き付けたことを自分にとっての書付と考え、「見る」と思わず「習う」と思わず、真似しないで、自分が見出した利であるように、常に自分の身になって工夫すべきである。
武蔵の二天一流の技は水が手本だと書いている。水は千変万化。容器によって形が変わるし、自然界の川や海もその形は一定ではない。つまり、不定形なのである。そのためか、書物で完全に書き表すことはできないと、ことわっているのである。この本を読んで兵法を身につけようとしている読者にとっては、何とも頼りない台詞。言葉足らずのところは自然と理解できるだろう、と読者に任せてしまっている。ここだけ読むと「完璧には書けないから、あとは自分でなんとかしてね。」と、放任している無責任な書物のように見えるが、これこそが二天一流が「水」を手本とする理由だと思われる。
つまり、二天一流にはある一定の決まった形、というものを持たないので、この技を書物に完全に表現することはできないのだろう。書き表すことができない部分(変化する部分)は、自分で見つけていくしかない。「教えてもらった」ものではなく、自分自身で発見したものでなければ、役立たせることはできない。だからこそ、書いてあることを一字一句考えなければならない、と教えているのではないだろうか。
兵法の道において心の持やうは、常の心に替る事なかれ。常にも兵法の時にも、少しもかはらずして心を広く直にして、きつくひつぱらず少しもたるまず、心のかたよらぬやうに心をまん中におきて心を静かにゆるがせて、其ゆるぎの刹那もゆるぎやまぬやうに能々吟味すべし。 |
兵法の道において、心の持ち方は「平常心」以外であってはならない。普段も戦いの時も少しも変化しないで心を広くまっすぐにし、緊張しずぎず、少しもゆるまず、偏りがないように心を真ん中に置いて静かにゆるがせて、ゆるぎの刹那(ほんの一瞬)でもゆるぎが止まらないように、よくよく吟味すべきである。
(中略)
心を真っ直ぐにして自分自身をひいきに見ないようにするのが肝要である。心の中は濁らないで広くして、物事を考えねばならない。智恵も心も熱心に磨くことが大切である。智恵をみがき、天下の正・不正をわきまえて、物事の善悪を知り、様々な芸能それぞれの道を体験し、世間の人に少しもだまされないようになってから、兵法の智恵が成り立つのである。
大舞台に立つ時、多くの人は緊張するものである。緊張しすぎて、普段通りの実力が発揮できずに失敗してしまったという経験は誰にでもあることだろう。そういう時こそ「平常心」が大切であると、武蔵も書いている。ただし、武蔵が言う「平常心」とは、日常生活の時の心ではなく、まさに「水」のように変化に富み、一定の形をとらずに動き続ける「水」の心なのである。この巻の冒頭では、二天一流の技は水を手本としている、と書かれているが、「技」だけでなく「心」も水を手本としているのである。水の心をもって勉学に励み、智恵を磨いて初めて、兵法の智恵、言い換えれるならば、勝利のための智恵、を身につけることができるのである。
<兵法の眼付と云う事>
目の付けやうは大きに広く付くる也。観見の二つの事、観の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、ちかき所を遠く見る事、兵法の専也。敵の太刀をしり、 |
目の配り方は、大きく広く見るようにする。「観」「見」の二つがあり、「観」の目は強く、「見」の目は弱く、遠い所をはっきりと見て、身近な所をはなして見ることが、兵法の上で最も大切である。敵の太刀筋を知るが、太刀筋にとらわれないということが、大事である。工夫しなければならない。これらの目付けは、個人の戦いにも、大人数の合戦でも同様である。目の玉を動かさずに両脇を見ることが肝要である。このことは、せわしいときに突然できるものではない。この書付を覚えて、常にこの目付になって、何事においても眼付が変わらないようにすること。よくよく吟味すべきものである。
「木を見て森を見ず」という言葉がある。森を構成する要素の一つである木にこだわりすぎるあまり、森という全体の姿が見えなくなることをいう。武蔵が言う「観」の目と「見」の目も似たような意味のようだ。ある特定のものを見るのではなく、それとなく全体を見る。「目の玉動かずして両脇を見ること肝要なり」とあるが、確かにこれは難しい。日ごろから練習することが大事だと、武蔵は書いている。
<太刀の持様の事>
・・(前略)・・ |
全体的に、太刀でも手でも「居着く(固着する)」という事を嫌うものである。「居着く」は死の手である。「居着かざる」は生の手である。よく心に刻んでおくべきものである。
前半部分は太刀の持ち方についての説明が書かれている。現代剣道と同じように、親指人差し指は軽く、小指薬指でしっかり締めるように持つ、と記されている。一般的な「水」の教えについて再度記されているのがこの後半部分だ。武蔵は、何かにとらわれすぎるということを「死の手」、とらわれ過ぎないことを「生の手」と表現し、ここでも不定形の姿を強調している。何かにとらわれすぎると固くなる。固くなると柔軟性を欠き、状況の変化に対応できなくなる。これは、戦の場に限ったことではないだろう。
<有構無構のをしへの事>
有構無構といふは、元来太刀をかまゆるといふ事あるべき事にあらず。され共、五方に置く事あればかまへともなるべし。太刀は敵の縁により、所により、けいきにしたがひ、何れの方に置きたりとも、其敵きりよきやうに持つ心也。上段も時に随ひ、少しさがる心なれば中段となり、中段を利により少しあぐれば上段となる。下段もをりにふれ、少しあぐれば中段となる。両脇の構もくらゐにより少し中へ出せば中段下段共なる心也。然るによつて構はありて構はなきといふ利也。先づ太刀をとつては、いづれにしてなりとも敵をきるといふ心也。若し敵のきる太刀を受くる、はる、あたる、ねばる、さはるなどいふ事あれども、みな敵をきる縁なりと心得べし。うくると思ひ、はると思ひ、あたるとおもひ、ねばるとおもひ、さはるとおもふによつて、きる事不足なるべし。何事もきる縁と思ふ事肝要也。能々吟味すべし。兵法大きにして、人数だてといふも構也。みな合戦に勝つ縁なり。ゐつくといふ事悪しし。能々工夫すべし。 |
有構無構とは、太刀を形にはまって構えてはあってはならない、ということである。しかし、刀を五種類にむけることは「構え」ということもできるだろう。太刀は敵の出方をきっかけとして、場所、戦況に応じて、どう構えてあっても敵を切り易いように構えるのである。上段も、少し下げれば中段になり、中段を少し上げれば上段になる。下段も状況によって少し上げれば中段になる。両脇の構えも、位置によって少し中へずらせば中段・下段になるのである。こういうわけで、構えとはあってないものである、という理になる。まず、太刀をとることはどのようにしてでも敵を斬ることが重要である。敵の斬撃を受ける、張る、当る、ねばる、さわるということがあっても、これらはすべて敵を切るきっかけと心得るべきである。受けよう、張ろう、当ろう、ねばろう、さわろうと思っていると、斬ることができなくなる。何事も斬るきっかけと思うことが肝要である。よく吟味すべきである。合戦では、兵の配置と陣形が構に当る。すべて合戦に勝つきっかけである。きまった形にとらわれるということが悪いのである。よくよく吟味せよ。
ここでいっていることは、手段が目的へと形骸化してしまうことへの戒め、である。そもそも、刀を使うことの目的は、敵を斬り勝利することにある。構えとは勝つための手段であって、構えること自体が目的ではない。この前の章で、武蔵は基本の5種類の構え(上段・中段・下段・左脇・右脇)を挙げているが、これらはすべて勝つための手段である。「構えること」が重要なのでなはい。極端に言えば、敵を斬りやすい構えなら何でもいいのである。その時々の戦況に合わせて、構えも変化させる(やはり、水を手本としている)ことが重要なのである。本来の目的は何なのか?そしてそのための手段は何なのか?そのあたりをよくわきまえなければならないのである。
<たけくらべといふ事>
たけくらべといふは、いづれにても敵へ入込む時、我身のちぢまざるやうにして、足をものべ、こしをものべ、くびをものべてつよく入り、敵のかほとかほとならべ、身のたけをくらぶるに、くらべかつと思ふほどたけ高くなつて、強く入る所、肝心也。能々工夫有るべし。 |
たけくらべとはどんな場合でも敵に身をよせる時、自分の体が萎縮してしまわないように、足も伸ばし、腰ものばし、首ものばして強く入るのである。敵の顔と自分の顔を並べ、背丈を比べて、自分が勝っていると思うぐらい、丈を高くして強く入ることが肝要である。よくよく工夫すべきである。
戦いの場では自分も相手も、迫り来る死の恐怖を少なからず感じるものである。ましてや、二人の間合いが詰まって刃物がすぐそばにある状態では、恐れのあまり腰がひけて体が萎縮してしまうのも自然なことだろう。しかし、それではいけない、というのがこの「たけくらべ」ということである。相手の懐に入るときは、自分が萎縮してしまわないように、自分の方が勝っているという気持ちで飛び込んで行かねばならないのである。「地の巻」で強調されていた自分の「拍子」を、自分で乱してしまわないようにすることが大切なのである。
<身のあたりといふ事>
身のあたりは、敵のきはへ入こみて、身にて敵にあたる心也。少し我顔をそばめ我左の肩を出し、敵のむねにあたる也。我身をいかほどもつよくなりあたる事、いきあふ拍子にて、はずむ心に入るべし。此入る事、入りならひ得ては敵二間も三間もはげのくほどつよきもの也。敵死入るほどもあたる也。能々鍛錬あるべし 。 |
身のあたり(体当たり)とは、敵のすぐそばへ入り込んで体で敵にあたることである。少し自分の顔をそむけて、左肩を出して敵の胸に当るのである。自分の身をとにかく強く当てるのである。勢いをつけはずむような気持ちで入りこまねばならない。これを習得すれば、敵を2間も3間もはねとばすほど強いものである。敵が死ぬほど当ることもできる。よくよく鍛錬すべきである。
様々な打撃を記す中で、ひとつ変わった技がこの「体当たり」である。実践的な兵法を教える武蔵は、剣術のみならず体術もその技に加えているのである。体当たりを教えるところを見ると、実戦慣れしている武蔵の横顔が見えるような気がする。
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心をさすといふは、戦のうちに、うへつまりわきつまりたる所などにて、きる事いづれもなりがたき時、敵をつく事、敵のうつ太刀をはづす心は、我太刀のむねを直に敵に見せて、太刀さきゆがまざるやうに引とりて敵のむねをつく事也。若し我くたびれたる時か、亦は刀のきれざる時などに、此儀もつぱらもちゆる心なり。能々分別すべし。 |
「心(心臓)をさす」というのは戦いにおいて、上が狭く脇も狭くなっている所などで斬ることも懐に入ることもできない時に、敵を突く事である。敵の太刀を外す心得は、太刀のみねを真っ直ぐに敵に見せて、太刀先がゆがまないように引いておいて敵の胸を突くのである。自分がくたびれた時、刀が斬れない時などに、もっぱらこの技を用いるのである。よくよくわきまえねばならない。
刀というのは「斬る」ことを主眼に置いているが、刺突もできるように作られている。刀が本来の機能を果たせない時でも使えるのが突き技もなのである。「斬る」だけでなく「突く」こともわきまえておかねばならない。
<多敵のくらゐの事>
多敵のくらゐといふは、一身にして大勢とたゝかふ時の事也。我が刀わきざしをぬきて左右へひろく太刀を横にすててかまゆる也。敵は四方よりかゝるとも一方へおひまはす心也。敵かゝるくらゐ、前後を見わけて先へすすむものに、はやくゆきあひ、大きに目をつけて敵打出すくらゐを得て、右の太刀も左の太刀も一度にふりちがへて、待つ事悪しし。はやく両脇のくらゐにかまへ、敵の出でたる所をつよくきりこみ、おつくづして、其儘又敵の出でたる方へかかり、ふりくづす心也。いかにもして敵をひとへにうをつなぎにおひなす心にしかけて、敵のかさなると見えば、其儘間をすかさず、強くはらひこむべし。敵あひこむ所、ひたとおひまはしぬれば、はかのゆきがたし。又敵の出するかたかたと思へば、待つ心ありて、はかゆきがたし。敵の敵の拍子をうけて、くづるゝ所をしり、勝つ事也。折々あひ手を余多よせ、おひこみつけて其心を得れば、一人の敵も十二十の敵も心安き事也。能く稽古して吟味有るべき也。 |
多敵のくらいというのは、一人で大勢の敵と戦う時のことである。自分の刀・脇差をぬいて左右へ広く脇に下げて構えるのである。敵は四方からかかってきても、一方へ追い回す気持ちで戦うのである。敵がかかってくる位置を見分けて先に来る者と戦い、全体に目をつけて敵が攻めてくる位置を知って、右の太刀も左の太刀も一度に振りちがえて斬るのである。そのまま待っているのは悪い。早く両脇に構えて敵がかかってきたところに強く切り込んで、押し崩し、そのまま敵出てきた方向にかかってふり崩していくのである。なんとしても間髪を入れずに強く払い込まなければならない。そのまま敵が出てきた方へかかっていくのである。なんとかして、敵を魚つなぎに追うようにして、敵が重なるのを見たらそのまますかさず強く払い込むべきである。敵がかたまっている所をひたおしにするのははかがいかない。また、敵が出てきたところを打とうとすれば、待つ心になってはかゆきがたい。敵の拍子を受けて、崩れるところを知って勝つのである。折に触れて相手をたくさん引き寄せて追い込み、その核心を得れば一人の敵も十人二十人の敵でも冷静に対処できるのである。よく稽古して吟味すべきである。
一人で大勢の敵と戦うことについて記されているのが、この「多敵のくらい」である。時代劇などで、一騎当千の主人公が大勢の敵を次々と打ち倒すシーンは実に爽快である。武蔵は、戦況をよく見て、敵を一方に追い込み「魚つなぎ」にして敵が重なったところ(つまり一列になったところ)で、強く斬り込めと書いている。現実生活でこういう状況にでくわすむ事はあまりないと思うが、数多くの困難な問題に直面することはあるだろう。そういう時でも、問題の優先順位をつけて一つずつ処理していけば状況を打開できるのかもしれない。
<巻末部分>
右書付くる所、一流の剣術、大形此巻に記し置く事也。兵法太刀を取りて人に勝つ所を覚ゆるは、先づ五つのおもてを以て五法の構をしり、太刀の道を覚えて |
右に書き付けたことは、二天一流の剣術をおおかた記したものである。兵法において、太刀を取って人に勝つことを会得するには、まず五つの基本型で五方の構えを知り、太刀の使い方を覚えて体全体が柔軟になり、心のはたらきが機敏となり、兵法の拍子を理解し、自然と太刀も手さばきも体も足も心のままに思いのままに動くようになる。それにともなって一人に勝ち二人に勝ち、兵法の善悪を知るほどになって、この書の一カ条一カ条を稽古して敵と戦い次第次第に兵法の利を会得して、常に心がけ、焦ることなく折にふれて戦ってはこつを覚えて、誰とでも打ち合い、相手の心を知るのである。千里の道も一歩ずつ進むのである。ゆっくりと考え、兵法を鍛錬することを武士の務めと心得、今日は昨日の自分に勝ち、明日は自分より下手なものに勝ち、後は自分より上手に勝つと思って、この書物のようにして少しもわき道へ心がそれないようにすべきである。たとえどれほどの敵に打ち勝っても、習ったことに背いていては本当の兵法の道ではない。この理を心に浮かべたなら、一身で数十人相手でも勝つ心がわかるはずである。そうなれば、剣術の知力で、多人数、1対1の兵法をも会得できるだろう。千日の稽古を「鍛」とし、万日の稽古を「錬」とする。よくよく吟味すべきである。
地の巻でも述べられていたように、人よりも優れた者になるには、普段の稽古が大切であり、そしてそれこそが武士の務めなのである。武蔵が言う武士道は、鍛錬の連続なのである。