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金田城

築城年 667年 分類 山城?
築城者 大和朝廷
史跡指定 特別史跡(昭和57年指定)
現在地

長崎県対馬市美津島町
(旧国名:対馬)
<左写真:二の城戸跡>

略歴

・天智6年(667年) 大和朝廷が唐・新羅の来襲に備えて築城  

<金田城の沿革>
 金田城(「かねだじょう」または「かなたのき」)は、拙庵で紹介している諸城よりも遥か昔に築かれた城です。築城は天智6年(667年)。その目的は唐・新羅の来襲に対する防衛線の構築という周辺国際情勢に対応したものであったそうです。この頃の朝鮮半島はまだ統一されておらず、唐や日本の影響を受けながらいくつかの国が分立している状態でありました。斉明6年(660年)、日本の影響が強かった百済が唐・新羅の連合軍の攻撃により滅亡。日本は、百済復興のために天智2年(663年)に大軍を送り込み、唐の水軍と激しい戦いを繰り広げました。この戦いは「白村江の戦い」と呼ばれています。この戦いで日本は敗れ、朝鮮半島からは全面的に撤退することとなります。逆に、唐・新羅の軍が日本に襲来する可能性が高かったため、大和朝廷は防衛のために天智4年(665年)に大野城(福岡県)、基肄城(佐賀県)、長門城(山口県)を築き、天智6年(667年)には高安城(大阪府・奈良県)、屋島城(香川県)、そして金田城(対馬)を築きました。これらの築城により、太宰府を中心に、瀬戸内海を囲んだ一大防衛線が完成したわけです。中でも、対馬の金田城は、国防の最前線に位置しており、重要な役割を課せられていたと思われます。
 しかし、この金田城が実際に戦に使用されたのか否か、詳しいことはまだまだ謎に包まれています。現在、明確にされている記録によると、最古の新羅の対馬襲来は、金田城築城からおよそ200年後のこと。これが真実だとするならば、金田城は築城されてから200年間は戦に使用されていないことになり、その間にすっかり荒廃してしまったのかもしれません。さらに時代を経た刀伊の入寇(1019年)元寇(1274年、1281年)では、対馬で激しい戦いが行われているにも関わらず、巨大な金田城が使用された記録が見当たりません。
 金田城は、平成5年(1993年)から発掘調査が行われ、石塁や城戸の復元が進んでおります。

<おすすめ見所>
三の城戸に続く石垣
 金田城があるのは、そうとう山奥なので、行こうと思った方は山登りの準備をしたほうが賢明だと思います。県道24号線から、車一台が通れる小道を進んで行くと、登山口までたどり着けますが、ここからは徒歩で行かなければなりません。登山口から歩くこと約20分、リアス式海岸が美しい浅芽(あそう)湾と共に、三の城戸に続く石垣が目に入ります。半分近く崩落している石垣がいかにも「古城」の雰囲気を醸し出しておりますが、それと共に浅芽湾の美しさも一級品です。来るのはたいへんですが、来る価値はあります。
 それにしても、見事な石垣!この時代に既に、このような石垣を使った築城技術を日本は持っていたわけですね。これほど見事な石垣が築かれたのも、大和朝廷による「国防」という国家プロジェクトだったからかもしれません。その後の武士の時代に、これほどの規模の石垣を持った城が創られるのは、戦国時代後期になるまで、ほとんど存在しなかったことでしょう。

<見学情報>
・交通
登山口まで来てくれる公共交通機関はありませんので、普通はレンタカーなどで県道24号線を進み、途中の小さな小道(標識あり)を進んで登山道まで来るしかありません。登山道入口から一の城戸まで片道およそ40分です。登山道はある程度整備されていますが、急傾斜なところも多く、崖から落ちる可能性もあるので、足元には十分気をつけてください。



探検日:2007年4月29日
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