時代区分 | 戦国時代 | 分類区分 | 古戦場 | 旧国名 | 尾張 |
現在地 | 愛知県豊明市栄町 | ||||
関連人物 | ・織田信長、今川義元ほか |
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関連事件 |
2回目に訪れた時、この建物は「六波羅密会堂」という斎場になっておりました。資料館がどこかに移転したのか、それとも閉館してしまったのかはわかりません。なので、以下の文章は2003年に訪れた時のものです。
豊明市の桶狭間古戦場公園は、駅を降りてすぐのところにあります。その隣の山の上には高徳院があり、その前の坂道を登って裏のほうに回ったところに、古戦場資料館があります。この資料館は県立・市立ではなく、高徳院が建設し、運営しているものです。
入ってすぐのところにだいたい等身大と思われる人形があり、平時の服装、立派な鎧姿などを見ることができました。かなり綺麗な状態でありました。また、古戦場資料館にふさわしく、穴あき鎧(槍で貫かれたと思われる)、ぼろぼろになった陣笠など出土品が展示されている他、江戸時代に描かれた絵も展示されておりました。また、桶狭間の戦いを説明した約15分ほどのビデオも上映されておりました。
<桶狭間と田楽狭間>
さて、有名なわりには謎が多い桶狭間の戦い。その謎の一つは「桶狭間」と「田楽狭間」という地名です。
一般に「桶狭間の戦い」と呼ばれますが、実際に織田本隊が今川本陣を襲った地点は桶狭間ではなく、田楽狭間という場所だった、と言われております。
明治37年6月の陸軍参謀本部「日本戦役」によると
この役の勝敗を決したる地は田楽狭間にして桶狭間に非ず。然れども桶狭間の名、既に膾炙(かいしゃ:広く知れ渡ること)す。故にこれに従う
とあり、実際の決戦場は田楽狭間だが、桶狭間の戦いという名前が広く定着しているため、桶狭間の戦いと呼んだ、という見解なのです。なお、現在の地名で言うと、桶狭間は名古屋市緑区有松町桶狭間に相当し、田楽狭間は古戦場公園がある豊明市栄町南舘に相当するとのこと。
<迂回説と正面攻撃説>
昔から、兵力で劣っていた信長は義元の本陣を直接奇襲することにより、奇跡の逆転勝利を挙げた、と言われておりましたが、少し前から、奇襲ではなかったのではないか、という見方が優勢になっているようです。これまでの説を「奇襲説」というのに対し、奇襲ではないとする見方を「正面攻撃説」などと呼ばれているようです。ただ、拙者はこの名前の区別はかなり誤解を産みやすいと思うゆえ、従来の「奇襲説」は「迂回説」と言うようにしております。迂回説を簡単に説明すると、善照寺砦を出た信長は大将ヶ峰を越えて今川本陣を襲ったというもので、それに対する「正面攻撃説」は善照寺砦を出た信長は中島砦に入り、そこからまっすぐ今川軍に攻撃を仕掛けたところ、たまたま今川本陣だった。というもののようです(2003年 桶狭間古戦場祭りでは、正面攻撃説で物語が語られておりました。)。「正面攻撃説」というと、奇襲は用いず、織田軍と今川軍が真正面からぶつかって、織田軍が勝ったと思いがちですが(拙者はそう思った)、どちらの説でも信長率いる織田本隊が今川本陣を襲った点では同じなのであります。
この資料館では、迂回説が採用されており、正面攻撃説には触れられておりませんでした。