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時代区分 | 江戸時代 | 分類区分 | 寺院 | 旧国名 | 武蔵 |
現在地 | 東京都港区高輪 | ||||
関連人物 | ・浅野内匠頭長矩 ・赤穂四十七士 | ||||
関連事件 | ・浅野内匠頭刃傷事件 ・赤穂浪士の討ち入り |
泉岳寺には「忠臣蔵」などで有名な、播州赤穂藩主・浅野内匠頭長矩とその正室・瑶泉院、そして大石内蔵助良雄以下、47名の赤穂浪士達が葬られた場所であります(厳密には47名全員の墓があるわではありません)。
2002年は赤穂浪士の討ち入りからちょうど300年の年でありました。毎年12月14日(吉良邸討ち入りが行われた日)、兵庫県赤穂市では「赤穂義士祭」が開かれており、拙者は縁あって2002年・300年祭の義士行列に参加して参りました(参加レポートはこちら!)。そして今年・2003年は浪士達の切腹からちょうど300年となります。こうなったら泉岳寺に行かないわけにはいかない!ということで、今回の関東旅行の一環として参拝してきたのでありました。
三笠見学でだいぶ時間をとってしまったため、最近泉岳寺に建設された「赤穂義士記念館」を見る時間の余裕はなかったのでありますが、ここまで来たらお墓参りだけでもしなければ!拙者とBlue殿は再び京急に乗って泉岳寺へ。
駅を降りてなだらかな坂道を少し登ると、泉岳寺の入り口らしき門が見えました。近くにあった案内板を見て場所を確認。2件並んでいる土産物屋さんの前を通ってすぐに大きな風格ある門がありました。「寺岳泉」と書かれた大きな看板が飾られておりました。その門の右側には大石内蔵助の銅像がそびえております。時刻は夕方頃。陽も傾きかけた頃合だったのでありますが、47士の墓所は線香をたむける参拝客でいっぱいでありました。
拙者は真っ先に勝田新左衛門武尭殿のお墓の前で手を合わせました。
(拙者とほぼ同年で討ち入りに参加された貴殿の心中はいかなるものだったのでありましょうか・・・?)
今となっては想像することしかできません。
途中から合流することとなった小山田殿が来るまで、拙者とBlue殿は、わりと近くにある旧・細川藩邸跡に行ってみました。細川藩邸では、大石内蔵助はじめ17人が切腹して果てた場所であります。といっても、今では、大きなマンションの裏にぽつんと塀で囲われた区域が残っているのみでした。入り口には重そうな扉に鍵がかけられており、その脇に説明書きがありました。
その後、小山田殿と合流して再びお墓参り。小山田殿はこの場所が好きで、数回来たことがあるそうです。47士も、全員ではありませぬが有名な人は知っていました。
「(前略)・・前原伊助は知ってる?」
「知ってる。お店開いた人だよね。」
「おお、よく知ってるな〜。それじゃ、勝田新左衛門は?」
「知らないよ。」
(煤Pロ ̄|||)・・・・・おのれ・・)
こうして拙者らは泉岳寺を後にしたのでありました。帰りに立ち寄った土産物屋さんは赤穂浪士関連グッズでいっぱいでありました。小山田殿は、小さな小物(倒しても自分で起き上がるもの・・名前がわからん・・)を購入。拙者は木刀やらお菓子やらを見ていたのでありますが、荷物が増えるとたいへんなので今回は何も買わず。短い時間でしたが、思い出に残る参拝となりました。
ちなみに、ペリー来航から始まる幕末動乱の頃。長州藩の俊才、吉田松陰は海外視察のためにペリー艦隊に密航しようとして失敗し(当時、密航は国禁であった)、捕まって江戸に送られました。その途中、ここ泉岳寺に立ち寄った松陰はこんな歌を詠んだそうです。
かくすれば かくなるものとは しりながら やむにやまれぬ 大和魂
この歌、拙者にはたいへん感慨深い歌です。
<交通手段>
都営浅草線「泉岳寺」から徒歩5分ほど。JRにも「泉岳寺」という駅があり、そんなに距離はないようです。
此度の泉岳寺見学にご同行いただいたBlue殿・小山田左兵衛信茂殿に、この場を借りて御礼申し上げまする。