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富岡城

築城年 1602年 分類 山城?
築城者 寺沢広高
歴代城主 寺沢家 → 山崎家 → 天領 → 戸田家
史跡指定 市指定史跡
現在地

熊本県天草郡苓北町
(旧国名:肥後)
<左写真:富岡城遠景>

略歴

・慶長7年(1602年)  天草統治の拠点として築城
・寛永14年(1637年) 島原の乱勃発。一揆軍から攻撃を受けるが、防衛に成功
・寛永15年(1638年) 寺沢家は天草を没収され、代わって山崎家治の領地となる
・寛永18年(1641年) 天草は天領となり、鈴木重成が代官として赴任
・寛文4年(1664年)  戸田忠昌が天草領主となる
・寛文10年(1670年) 破城処分  

<富岡城の沿革>
 関が原の戦いの後、天草は肥前唐津城の寺沢広高の飛び地となりました。富岡城は、天草統治の拠点として、慶長7年(1602年)に築かれました。富岡半島は典型的な陸繋島であり、有明海から島原湾を経て外海へと向う出口に位置し、島原・長崎・天草を一望できる山の上に、富岡城が築かれました。
 この富岡城が、有名な島原の乱の際、一揆軍の攻撃を受けて落城寸前まで追い詰められたことはあまり知られていません。城代の三宅藤兵衛は、本渡で一揆軍と交戦して討死。勢いに乗った一揆軍は富岡城まで攻め上り、二の丸まで占領してしまいます。富岡城は落城寸前まで追い込まれてしまったわけです。しかし、一揆軍側にも被害が多く出ていたために、富岡城陥落を目前にして撤退して原城に立て籠もったため、富岡城は落城を免れました。
 乱が終息した後、寺沢家は天草を没収され、代わって山崎家治が天草領主として入城しました。家治は富岡城の修築にあたりましたが、工事が完成した寛永18年(1641年)讃岐国丸亀城に転封となりました。その後、天草は天領となり、鈴木重成が代官として赴任。乱の後の天草の復興に尽力し、天草の石高4万2千石は実状からかけ離れているとして、石高半減を自らの命と引換に訴え、江戸で自刃した話は今でも語り継がれています。
 寛文4年(1664年)に天草領主となった戸田忠昌は、寛文10年(1670年)に、富岡城の破城を決定。その理由は、富岡城の維持修築費用が財政を圧迫していたため、といわれています。三の丸のみを残し、他はほぼ全て破壊され、富岡城は城として機能を失いました。
 現在、富岡城は発掘調査が進み、復元工事が進んでいます。

<おすすめ見所>
富岡城ビジターセンター
 富岡城には天守閣は築かれず、本丸には多聞櫓が置かれていたそうです。現在、多聞櫓外観のミニ博物館「富岡城ビジターセンター」が建設されています。

鈴木重成と正三和尚像
 島原の乱の復興にあたった幕府代官・鈴木重成とその兄の正三(しょうさん)和尚の像。天草の復興にあたり、重成は兄の正三和尚を招き、民衆の教化を図る一方、荒地開拓と住民受け入れを促進しました。二人の天草復興事業は民衆の心を掴み、天草島内のあちこちに鈴木神社などが造営され、祀られているそうです。



探検日:2007年3月11日
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