こちらでは討ち入りに参加した47名の義士たちを一人一人、五十音順に紹介しております。
★あ行(13名)★か行・さ行(10名)★た行・な行・は行(13名)★ま行・や行(11名)

赤穂四十七士トップページへ戻る

赤埴源蔵あかばねげんぞう  重賢しげかた 200石 馬廻 享年35
古いものでは「赤垣」と表記されていることが多いが、「赤埴」の誤記と考えられている。また「埴」の字も「バネ」という訓はないので正しくは「ハニ」なのかもしれない。江戸勤めで、討ち入り前は堀部安兵衛ら急進派と行動していた。
討ち入り前に、兄のところへ別れの挨拶を告げに行ったが、あいにく兄は留守。代わりに、兄の着物を衣桁にかけ、その衣桁を兄に見立てて別れの杯を交わしたという「徳利の別れ」で有名。ただし、彼は下戸であまり酒はたしなまないうえに、兄はいなかった。実際は、妹の所に行った模様。
討ち入り時は裏門「よ組」に属し、大石瀬左衛門と共に屋内で交戦。
四十七人の刺客では表門抜刀突進隊・三番隊組頭として戦っている。
礒貝十郎左衛門いそがいじゅうろうざえもん 正久まさひさ 150石 側用人 享年25
父と懇意であった堀部弥兵衛の推挙で主君・浅野内匠頭の側に仕え、次第に重用される。主君切腹後は親友の片岡源吾右衛門と共に江戸にて別派行動していた(堀部安兵衛の急進派とは別)。後に大石内蔵助の盟に加わる。討ち入り時は裏門隊「か組」に所属。ロウソクを使って暗い邸内に明かりを灯し、味方を有利に導いたという。四十七人の刺客では表門・二間半長柄槍組に属している。
潮田又之丞うしおだまたのじょう 高教たかのり 200石 馬廻 国絵図役 享年35
赤穂浅野家譜代の家臣で、将来を期待されていた中堅幹部。優れた剣の使い手で戦力の中核となった。裏門隊「ぬ組」に属し、屋内で交戦。四十七人の刺客では表門・二間半長柄槍組に属している。
吉良方の二刀流剣士・清水一学と戦ったという逸話がある。引き上げの際、吉良の首級を槍先に掲げて行進した。
大石内蔵助おおいしくらのすけ  良雄よしたか 1500石 国家老(筆頭家老) 享年45
大石家は浅野長政の三男・長重の代から浅野家に仕えており、大坂の陣の功で家老となったという。父が早世したため、19歳で大石家の家督を継ぎ、21歳で家老職を継いだ。「昼行灯」「賢愚定かならず」と評されていたが、主君切腹後、多くの上級武士が赤穂を見限って去ったにも関わらず、彼は家老として再三にわたり吉良側の処分を求め、お家再興運動を展開。その責務を果たした。
赤穂城明け渡しの後はしばしば遊興にふけっていたが、その一方でいきり立つ急進派を抑え、心ある藩士達をまとめあげて討ち入り準備を進めている。討ち入り時は表門隊大将。見事に本懐を達成した。
大石瀬左衛門おおいしせざえもん  信清のぶきよ 150石 馬廻 享年27
内蔵助の遠縁にあたる。原惣右衛門と共に、主君切腹・吉良にお咎め無し、の報を伝える第二の使者となった。赤穂城明け渡しの後は兄・孫四郎と共に京都に住む。元禄15年7月28日の円山会議の後、大石家の者はほとんどが脱落、兄の孫四郎も脱盟したが、彼は残った。兄に絶縁状を送りつけて江戸に向い、小田権六と称して吉良方の偵察にあたった。
武術にも優れており、討ち入り時は裏門隊「よ組」に属して屋内で奮戦。四十七人の刺客では表門抜刀突進隊・四番隊組頭として活躍している。
大石主税おおいしちから  良金よしかね 部屋住み 大石家嫡男 享年16
内蔵助の嫡男であり、47士中最年少。赤穂城明け渡しの時はまだ元服していなかったため、盟約には参加していなかった。父である内蔵助は、幼い息子を討ち入りに参加させるかどうか悩み、主税の元服をいつにするかおおいに悩んでいたが、元禄14年12月15日に元服。自ら進んで盟約に加わった。
討ち入り時は裏門隊の大将となって指揮をとる。こんな話がある。吉良を探していた途中、怪しげな暗がりを発見したが、敵が潜んでいるのかもしれないので進んで入ろうとする者がいなかった。その時彼は自ら進んで中に入り、その勇敢さを褒められたという。
大高源吾おおたかげんご  忠雄ただかつ 20石 中小姓 膳番 享年32
優れた俳諧の才を持った風流人で、「子葉」という俳号も持っている。小野寺十内の甥にあたり、弟の幸右衛門は十内の養子となっている。大石の信頼も厚く、連絡役として赤穂・大坂・京都・江戸を奔走。京都・円山会議の後の再選定で起請文を持って浪士達の意志を確認したのも彼であった。
吉良邸に出入りしている茶人山田宗偏に弟子入りして、吉良邸で行われる茶会の情報を入手した。討ち入り時は表門「は組」に属して奮戦。四十七人の刺客では表門抜刀突進隊・二番隊組頭を務めている。
岡島八十右衛門おかじまやそえもん  常樹つねき 20石 中小姓 札座奉行 享年38
第二の早駕籠使者である原惣右衛門の弟。藩札の管理人として赤穂開城の財政整理に尽力した。この間、家老の一人・大野九郎兵衛から横領疑惑をかけられて激怒し、大野邸に押しかけたところ、身の危険を感じた大野は家族と逐電してしまった。江戸入り後、郡部八郎という名前で吉良邸の偵察にあたる。
討ち入り時は表門「ち組」に属して戦った。四十七人の刺客では裏門隊・半弓組に属している。
岡野金右衛門おかのきんえもん  包秀かねひで (亡父)200石 部屋住み 享年24
有名な「恋の絵図面取り」の主人公となった美男子。赤穂開城の時は父・金右衛門が健在だったため、部屋住みの身であった。元の名は「九十郎」であったが、共に盟約に参加した父が病死したため、父の名である「金右衛門」を継いで討ち入りに参加した。従兄弟である大高源吾の影響を受けて俳諧にも親しんでいた。 討ち入り時は表門「ほ組」に所属。四十七人の刺客では裏門抜刀突進隊・二番隊に所属している。
奥田貞右衛門おくださだえもん  行高ゆきたか 9石 加東郡勘定方 享年26
近松勘六の異母弟。勘六の母は早世し、後妻が貞右衛門を産んだ。後に、奥田孫太夫の娘婿となった。父・孫太夫と共に江戸急進派の一人として行動していた。実家の近松家は医師の家だったため、医術の心得をいかして討ち入り前は町医者をやって情報収集を行う。
討ち入り時は裏門「わ組」に属し、屋外警備の任についた。四十七人の刺客では表門抜刀突進隊・三番隊に属して奮戦。引き上げの際、重傷を負った兄・勘六を肩に担いで運んだ。
奥田孫太夫おくだまごだゆう  重盛しげもり 150石 馬廻 江戸武具奉行 享年57
堀部安兵衛と同じく江戸急進派の中心人物。また、剣術も安兵衛と同門で、高齢ながらもかなりの使い手であった。娘婿に近松勘六の異母弟・貞右衛門行高を迎える。常に江戸に滞在し、情報収集に貢献。
討ち入り時は表門「と組」に属して若手をひっぱって敢闘。四十七人の刺客では奇襲組に属して活躍している。
小野寺幸右衛門おのでらこうえもん  秀富ひでとみ 部屋住み 小野寺家嫡男 享年28
大高源吾の実弟。叔父の小野寺十内に子がなかったので、小野寺家の養子となった。赤穂開城後は養父・十内と共に京都に滞在して、討ち入りの機を待ち、円山会議には十内と共に出席した。
討ち入り時は表門「ち組」に属し、一番乗りを果たしたうえに吉良勢の弓の弦をなぎ払って戦力を削ぐなどの功を立てた。四十七人の刺客では表門抜刀突進隊・三番隊に属している。
小野寺十内おのでらじゅうない  秀和ひでかず 150石
(役料70石)
京都留守居役 享年61
赤穂浅野家譜代の家臣で、赤穂転封前の笠間で生まれた。子がいなかったため、大高家に嫁いだ姉の息子である幸右衛門を養子に迎えた。刃傷事件後は、京都藩邸の残務処理にあたってから赤穂に帰還。赤穂開城後は京都に戻り、以後、内蔵助の補佐役として活躍した。
討ち入り時は裏門「ぬ組」に属して、吉田忠左衛門と共に司令部に属した。四十七人の刺客では、表門隊副将として内蔵助を補佐している。
夫婦共に文藻に富み、夫唱婦随で有名。その十内の妻は、夫・十内、養子・幸右衛門、甥・大高源吾、従兄弟・岡野金右衛門の供養墓を京都西方寺に立て、夫の四十九日の法要を営んだ後、絶食して彼らの後を追った。

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