こちらでは討ち入りに参加した47名の義士たちを一人一人、五十音順に紹介しております。
あ行(13名)★か行・さ行(10名)★た行・な行・は行(13名)★ま行・や行(11名)

赤穂四十七士トップページへ戻る

武林唯七たけばやしただしち  隆重たかしげ 15両 馬廻 享年32
祖父は豊臣秀吉の朝鮮出兵の時に捕虜となった孟二寛。出身地から「武林」の姓を名乗って日本に帰化した。赤穂浅野家には父の代から仕えている。赤穂開城後、江戸に下って江戸急進派の一人となった。
討ち入り時は表門「へ組」所属。四十七人の刺客では裏門抜刀突進隊・三番隊組頭を務めている。その武功はめざましく、吉良上野介に一番太刀を浴びせた他、嫡孫である義周も負傷させている。
近松勘六ちかまつかんろく  行重ゆきしげ 250石 馬廻 享年34
近松家は祖父以来の譜代の家臣で、祖父は名医と評判であった。刃傷事件の時は江戸にいたが、江戸屋敷の引渡しが終わるとすぐに赤穂に帰還。大石内蔵助の命で早水藤左衛門と共に、高野山に供養碑を建立した。また、主君の一周忌が近づくにつれて激昂する江戸急進派を抑えるための使者として吉田忠左衛門と共に説得に向うなど、内蔵助の補佐に尽した。
討ち入り時は表門「は組」に所属。四十七人の刺客では裏門抜刀突進隊・一番隊に所属している。屋外で戦闘中、凍結した地に足をとられ、池に落ちて負傷。映画などではよく出てくるシーンとなった。
寺坂吉右衛門てらさかきちえもん  信行のぶゆき 3両2分 足軽
(吉田忠左衛門組)
享年83
討ち入り時は38
吉田忠左衛門に仕えた足軽。主に同志達の世話係として働いた。
討ち入り時は裏門「た組」に所属。四十七人の刺客では伝令役を務めている。大石内蔵助や主君である吉田忠左衛門の密命を受け、討ち入り後に姿を消す。その後は、吉田の長女が嫁いだ伊藤家に仕え遺族の世話をした。59歳の時に伊藤家から暇をもらい、妻と共に江戸・曹渓寺の寺男としてひっそりと余生を送ったという。
富森助右衛門とみのもりすけえもん  正因まさより 200石 馬廻 使番 享年34
14歳の時に父を失い、それ以後、母の教育を受けて育つ。19歳のときに馬廻兼使番に抜擢された。刃傷事件の際は、勅使お迎え役として、伝奏屋敷に入っていた。
討ち入り時は表門「へ組」に所属。四十七人の刺客では表門抜刀突進隊・一番隊組頭を務めている。この時、自分を一生懸命に育ててくれた母の白無垢小袖を身につけて戦ったという。
討ち入り後、泉岳寺へ引きあげる途中で、内蔵助の命を受けて仙石伯耆守吉田忠左衛門と共に代表自訴する役を担った。
中村勘助なかむらかんすけ  正辰まさとき 100石 馬廻兼祐筆頭 享年48
書に優れ、開城後の残務処理に尽力した。実家は白河藩松平家の家臣だったが、赤穂浅野藩の中村家の娘婿となった。討ち入りが決まると、妻子を実家に帰し、江戸に入って準備を進めた。
討ち入り時は裏門「わ組」に所属。得意の槍で奮戦したという。四十七人の刺客では表門抜刀突進隊・二番隊に所属している。
間喜兵衛はざまきへえ  光延みつのぶ 100石 馬廻 勝手方吟味役 享年69
謹直寡言の士。間家は赤穂浅野譜代の家臣の家で、嫡男・重次郎、次男・新六と親子3人で討ち入りに加わっている。開城後も赤穂に残って時期を待ち、京都・円山会議で討ち入りが決まると、高齢の身でありながら江戸に向った。
討ち入り時は裏門「ぬ組」に属して脱走する敵に備えた。四十七人の刺客では表門隊後詰を務めている。
間重次郎はざまじゅうじろう  光興みつおき 部屋住み 享年26
間喜兵衛の嫡男。父とともに盟約に加わった。赤穂開城後は父と共に赤穂で機が熟すのを待った。京都・円山会議で討ち入りが決まった後、父よりも先に江戸へ向った。
討ち入り時は表門「は組」に所属。四十七人の刺客では表門抜刀突進隊・一番隊に所属している。吉良に一番槍をつけた。この功で、泉岳寺では主君の墓前で内蔵助の次に焼香することを許された。
間新六はざましんろく  光風みつかぜ 部屋住み 享年24
間喜兵衛の次男。従兄弟の養子となっていたが折り合いが悪く、姉の嫁ぎ先である中堂家に居候していた。刃傷事件の顛末・そして父と兄が盟約に加わったことを知って盟約に加わった。
討ち入り時は裏門「を組」に所属。四十七人の刺客では表門抜刀突進隊・一番隊に所属している。切腹後、彼の遺骸は中堂家に引き取られ、築地本願寺に埋葬されたが、昭和になってから泉岳寺に移されたらしい。
早水藤左衛門はやみとうざえもん  満尭みつたか 150石 馬廻 享年40
弓に優れた士であり、刃傷事件を伝える第一の早駕籠使者。備前の郷士・山口家に生まれたが、赤穂浅野の早水家の養子となった。当初から内蔵助の盟約に加わり、近松勘六共に高野山に浅野内匠頭の供養碑を建立した。江戸入り後は、曽我金助と名乗って偵察にあたる。
討ち入り時は表門「に組」に所属し、得意の弓で活躍。四十七人の刺客では、表門抜刀突進隊・四番隊に所属している。
原惣右衛門はらそうえもん  元辰もととき 300石 足軽頭 享年56
上杉藩士の血を継ぎし硬骨の士。父は元米沢上杉藩士であり、従兄弟もまたそうであったが、赤穂藩士の道を貫いた。主君切腹・吉良にお咎め無し、の報を伝える第二の使者となった。赤穂開城後は残務処理に尽力した後、大坂に移って時期を待つ。
討ち入り時は表門「い組」に所属。四十七人の刺客では裏門・半弓組の組頭を務めている。
不破数右衛門ふわかずえもん  正種まさたね 元100石 元馬廻・浜奉行 享年34
浪人の身でありながら、討ち入りに加わった剣豪。元は浜奉行で、内蔵助の部下であったが、訳あって藩籍から除外される。しかしその後、盟約に加わってよく補佐を務めた。
討ち入り時は裏門「る組」に所属。持ち場は屋外であったが、屋内での戦いが激しくなるとこれに加わり、獅子奮迅の働きを見せた。四十七人の刺客では奇襲組に所属して活躍している。
堀部安兵衛ほりべやすべえ  武庸たけつね 200石 馬廻 江戸留守居役 享年34
義に厚き剣豪。その腕前は47士中、最強と賞された。父は越後新発田藩士だったが浪人したため、安兵衛は江戸に出て剣の修行を積んでいた。そこで意気投合した菅野六郎左衛門の決闘(高田馬場」の決闘)に助太刀して勇名を挙げ、堀部弥兵衛の婿養子となった(旧姓は中山)。刃傷事件後は、討ち入りを急ぐ江戸急進派の筆頭であった。
討ち入り時は裏門「か組」に所属し奮戦。四十七人の刺客では裏門抜刀突進隊・一番隊組頭を務めている。
堀部弥兵衛ほりべやへえ  金丸かなまる 隠居料50石 隠居 享年77
47士最年長。「金丸」を「あきざね」と読んでいるものもある。元は肥前島原藩に仕えていたが、上司と喧嘩して浪人。赤穂浅野家にその気骨を買われて召抱えられ、江戸留守居役を勤めた。嫡男がいなかったため、高田馬場の決闘で勇名を挙げた中山安兵衛を婿養子に迎えた。
討ち入り時は表門「ろ組」に所属。老齢ながらも短槍で奮戦した。四十七人の刺客では裏門隊の後詰となっている。

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