こちらでは討ち入りに参加した47名の義士たちを一人一人、五十音順に紹介しております。
あ行(13名)★か行・さ行(10名)★た行・な行・は行(13名)★ま行・や行(11名)

赤穂四十七士トップページへ戻る

貝賀弥左衛門かいがやざえもん  友信とものぶ 10両 中小姓兼蔵奉行 享年54
吉田忠左衛門の実弟だが、母方の貝賀家の養子となった。誠実な人物であったと伝えられている。赤穂開城後は京都に滞在。円山会議の後、大高源吾と共に起請文を浪士達に返して回り、討ち入り参加者の再選定を行った。江戸に入ってからは、町人・喜十郎と名乗って吉良方の偵察を行った。
討ち入り時は表門「ほ組」所属。四十七人の刺客では裏門隊・二間半長柄槍組に所属している。
片岡源吾右衛門かたおかげんごえもん 高房たかふさ 350石 側用人 享年37
尾張徳川家藩士の家に生まれたが、赤穂浅野家臣だった叔父の養子となって跡を継いだ。側用人であったため、浅野内匠頭刃傷事件の時江戸におり、田村邸での主君の切腹を見届けた。当初は礒貝十郎左衛門と共に行動していたが、後に内蔵助らに合流。尾州浪人・吉田勝兵衛という名前で偵察を行った。
討ち入り時は表門「へ組」に所属し、槍を振るって屋内で奮戦した。四十七人の刺客では表門・二間半長柄槍組・組頭として活躍している。
勝田新左衛門かつだしんざえもん  武尭たけたか 15石 中小姓 札座横目 享年24
赤穂浅野家譜代の家臣。転封前の笠間の頃、祖父は農民であったが、その武力を評価されて武士となった。わずか7歳の頃に両親を失い、幼くして家督を相続している。優秀な剣の使い手だった彼は堀部安兵衛らの江戸急進派の一人であり、町人・嘉右衛門と名乗って吉良方の偵察にあたった。
討ち入り時は表門「と組」に属して屋内で奮戦。四十七人の刺客では裏門抜刀突進隊・二番隊組頭を務めている。天涯孤独の独身だったためか、切腹の際に遺言は残していないらしい。
茅野和助かやのわすけ  常成つねなり 5両 中小姓 横目 享年37
元は神崎与五郎と同じく美作出身で津山森家に仕えていたが、森家が改易されたため浪人。元禄10年から赤穂浅野家に仕えた。当初から盟約に加わっており、赤穂開城後も赤穂に残って機会を伺っていた。江戸入りしてからは、町人・助五郎などと名乗って吉良方の偵察にあたる。
弓の心得があり、討ち入り時は裏門「を組」に属し、屋外の警備にあたった。四十七人の刺客では表門・半弓組に属し、得意の弓で活躍している。
神崎与五郎かんざきよごろう  則休のりやす 5両 徒目付兼郡横目 享年38
元は茅野和助と同じく津山森家に仕えていたが、森家改易後、元禄10年に赤穂浅野家に仕えた。俳諧をたしなみ、「竹平」という俳号も持っている。赤穂開城後は赤穂に残って機が熟すのを待っていた。江戸入り後、前原伊助の米屋と合流。小豆屋善兵衛と名乗って雑穀を売る一方、火事・風雨など、何かあるたびに屋根に登って吉良邸の様子を窺っていた。
茅野と同じく弓が得意で、討ち入り時は表門「に組」に属し、早水藤左衛門と共に屋根に登って半弓で戦った。四十七人の刺客では表門・半弓組の組頭を務めている。
木村岡右衛門きむらおかえもん  貞行さだゆき 150石 馬廻 絵図奉行 享年46
3代にわたって浅野家に仕えた好学の士。赤穂城明け渡しの時は潮田又之丞と共に幕府に渡す絵図面を作成するなど、残務処理にあたった。最初は盟約に加わらなかったが、元禄15年の春に加わる。江戸入り後は、町人姿で吉良邸の偵察にあたる。
討ち入り時は裏門「る組」に属して屋外で勇戦。四十七人の刺客では表門抜刀突進隊・四番隊に所属している。
倉橋伝助くらはしでんすけ  武幸たけゆき 20石 中小姓 享年34
主君刃傷事件の時は江戸におり、江戸急進派と共に行動した。7歳の時に父を亡くして家督を相続している。前原伊助神崎与五郎の店に住んで、手代として働きながら吉良邸の偵察にあたった。
討ち入り時は裏門「か組」に所属。四十七人の刺客では裏門抜刀突進隊・二番隊に所属している。
菅谷半之丞すがやはんのじょう  政利まさとし 100石 馬廻 郡代 享年44
内蔵助の参謀。47士の中で唯一、赤穂浅野の藩士教育にあたった山鹿素行の山鹿流免許皆伝を受けている。実直な人物で、内蔵助をよく補佐した。江戸入り後は町人・政右衛門と名乗って偵察にあたる。
討ち入り時は裏門「た組」に所属し、屋内で戦った。四十七人の刺客では裏門・二間半長柄槍組の組頭を務めている。
杉野十平次すぎのじゅうへいじ  次房つぎふさ 8両 中小姓兼札座横目 享年28
堀部安兵衛と共に並び称された剣豪。禄は低いが、母方の実家が裕福であったため、しばしば浪士達に資金提供していたと言われている。吉良邸の門前に「夜泣きそば屋」を開業して偵察にあたったという話がある。
討ち入り時は裏門「た組」に所属、かけやで門を打ち破り屋内に突入した。四十七人の刺客では、奇襲組に所属して活躍している。
千馬三郎兵衛せんばさぶろうべえ  光忠みつただ 100石 馬廻 享年51
質実剛健の士。「千馬」は「ちば」と読んでいるものもある。主君の不興をかって閉門を申し付けられ、暇を願い出て赤穂を去ろうとしたが、刃傷事件の報を聞いて思いとどまり、盟約に参加した。赤穂開城後は大坂で機が熟すのを待つ。
討ち入り時は裏門「を組」に属し、半弓を使って奮戦。四十七人の刺客でも裏門・半弓組に属して活躍している。

このページのトップへ