こちらでは討ち入りに参加した47名の義士たちを一人一人、五十音順に紹介しております。
★あ行(13名)★か行・さ行(10名)★た行・な行・は行(13名)★ま行・や行(11名)
|
10石 | 中小姓兼金奉行 | 享年40 |
商才をもって情報収集にあたった義士。江戸勤めで金銭を扱う仕事をしていたためか、商人に扮して情報収集にあたった。吉良邸移転後、米屋五兵衛と名乗って吉良邸門前に米屋を開き、神崎与五郎・倉橋伝助と合流して吉良邸の偵察にあたるなど、特技を活かして討ち入り準備をすすめた。 討ち入り時は裏門「る組」に所属して、先頭に立って味方を誘導した。四十七人の刺客では表門抜刀突進隊・二番隊に所属している。 |
|||
|
200石 | 目付 | 享年63 |
厳格正直で、家中の者から尊敬されていた。赤穂浅野藩五重職の一人で、当初から盟約に加わり大石内蔵助の参謀として活躍した。赤穂開城後の残務処理を終えた後は播州加東郡へ移って時期を待った。江戸入り後は、医者・三橋浄貞と名乗った。 討ち入り時は表門「ろ組」に所属し、司令部の一員となる。四十七人の刺客では裏門隊・後詰となっている。 |
|||
|
部屋住み | 享年23 | |
間瀬久太夫の嫡男。父・久太夫と共に当初から盟約に参加する。赤穂開城後は父と共に加東郡に移り、しばしば父の使いとして内蔵助との連絡役を務めた。江戸入り後は三橋小一郎と名乗って吉良邸の偵察にあたる。特に、同年代で仲がよく、また従兄弟だった岡野金右衛門と吉良邸・上杉邸を夜回りして探ったという。 討ち入り時は裏門「わ組」に所属し、槍を手に屋外で敢闘。四十七人の刺客では裏門抜刀突進隊・三番隊に所属している。 |
|||
|
7石 | 台所役人 | 享年37 |
三村家は浅野家譜代の家臣であったが、台所役人は身分が低いという理由で赤穂の評定に加えてもらえなかった。しかし、内蔵助に自分の固い決意を伝え、盟約に加わったという。 討ち入り時は裏門「た組」に所属。杉野十平次と共にかけやで裏門を打ち破った。四十七人の刺客では表門後詰となっている。 |
|||
|
20石 | 扶持奉行 | 享年62 |
江戸勤めであったので刃傷事件の際は江戸にいたが、事件が起こると息子・三太夫と共に一番に赤穂に帰還。内蔵助に復仇の意志を伝えたという。江戸入り後は医者・荻野降円と名乗って偵察にあたる。 討ち入り時は表門「ろ組」に所属し、警備にあたった。四十七人の刺客では表門後詰となっている。 |
|||
|
部屋住み | 享年27 | |
村松喜兵衛の嫡男。父からは母を養うように言われたが、盟約に加わることを切に願い、ついに父を納得させて共に赤穂に戻る。江戸育ちだったので地理に明るく、よく偵察にあたったという。 討ち入り時は表門「ろ組」に所属し、吉良を探して奮闘した。四十七人の刺客では表門半弓組に所属している。 |
|||
|
150石 | 馬廻 | 享年28 |
文武両道の士。赤穂浅野家には父の代から仕えており、父は山鹿素行の教育を受けていた。彼はこの父から兵学などを教え込まれ、家中では有名になるほどだった。 討ち入り時は表門「と組」に所属し、屋内に斬り込んだ。戦闘中に刀を火鉢に叩きつけて折ってしまい、相手の刀を拾って戦ったという。四十七人の刺客では裏門二間半長柄槍組に所属している。 |
|||
|
部屋住み | 20石 (亡父) |
享年18 |
志半ばで病に倒れた父の遺志を受け継いだ若き義士。大石主税の次に若かった。父と共に盟約に加わるが、京都円山会議の前に父は病に倒れ、その後間もなく病死してしまった。大石らは、あまりに若い彼を討ち入りに加えることをためらったが、自らの強い意志で残った。 討ち入り時は表門「に組」に所属して父の法名を書いた紙を兜頭巾の裏に収めて奮戦。四十七人の刺客では裏門隊後詰となっている。 |
|||
|
5両 | 横目 | 享年37 |
江戸勤めであったがすぐに赤穂に戻って盟約に加わり、連絡役として活躍した。江戸入り後は吉良邸の偵察で特に功を挙げ、大高源吾とは別経路で吉良邸茶会の日取りを聞きだした。 討ち入り時は表門「ほ組」に所属。四十七人の刺客では裏門抜刀突進隊・一番隊に所属している。 |
|||
|
13両 | 蔵奉行 | 享年29 |
吉田忠左衛門の嫡男。父と共に盟約に加わり、赤穂開城後は播州三木に移って時期を待った。江戸入り後は田口左平太と名乗って吉良邸の偵察にあたった。 討ち入り時は表門「ち組」に所属。屋内に攻め込んだ。四十七人の刺客では裏門抜刀突進隊・三番隊に所属している。 |
|||
|
200石 | 足軽頭 | 享年64 |
一党の実質的な副将。吉田家は赤穂転封前から仕えている譜代の家臣で、彼は笠間で生まれた。嫡男・沢右衛門、弟・貝賀弥左衛門、配下の足軽寺坂吉右衛門を率いて参加。主にはやる江戸急進派の説得などにあたった。 討ち入り時は裏門「り組」に所属、四十七人の刺客では裏門隊副将として主税を補佐。討ち入り後、富森助右衛門と共に代表自訴の役を担った。 |